こども110番の家

 JR中央線の武蔵境から武蔵小金井までは、遠くに変電所の鉄塔群がある以外、進行方向の左右どちらを見ても平べったい住宅街が延々と広がっている。覗き見してみたいなあ、知らない人の家の中を、なんて考えながら、わたしは南側のとびらに肩をもたれて、自分の家を探した。  生まれてから高校を卒業するまで、十八年間ずっと暮らした家だ。たしかあのあたりだろうという見当はつくが、どの家も窓があって屋根が載っていて、ぜんぶ同じに見える。わたしは細かい違いを見つけるのが、どうも苦手らしい。たとえば、パリに行ってもニューヨークに行っても、東京の街並みとどこが違うのかわからない。どの街も、同じように歩道があって車道があって、看板があってお店があって、ゴミがところどころ落ちている道を二本足の人間が歩いている。間違い探しは苦手だが、共通点を見つけるのは得意らしかった。  窓の外に流れる町は、地平線から投げつけられた夕日で、見渡す限り赤く染まっていた。ポケットに入れていた携帯電話が振動して、見ると「無事に着いたら教えてね」と夫からのメッセージが届いている。「ありがと」と四文字を送って、これだけじゃ寂しいなと思い直し、コミカルな豚が目をぎゅっと閉じて舌を出して「ベーッ」という表情を作っているスタンプを送った。「泊まってきていいからね」ともう何度目かわからない文章を適当に流し読みして、もういちど豚の「ベーッ」というスタンプを送る。着替えがあるようだったら泊まるけれど、どうだろう。泊まるのか泊まらないのか、自分でもよくわからなかった。  わたしが最後に東小金井駅を降りたのは、もう十年くらい前のことになる。もしかしたらそれ以降も、野暮用で何度か降りたことがあるかもしれないが、記憶にはなかった。記憶というのは勝手なものだ。駅に近づいた電車が減速をはじめて、通っていた高校の校舎が見えてきた。わたしがいたころ、野球部のネットはあんなに高く張られていただろうか。もっと低かった気もするし、昔からいまくらい高かったような気もする。わたしが卒業してから十年のあいだに、わたしの母校は地元でも有数の進学校になっていた。後輩が努力して偏差値を上げてくれたおかげで、わたしは少しだけ鼻が高い。あの高校は、わたしの最終学歴なのだから。  わたしはいま実家に向かっている。十年ぶりの実家だ。十年、十年となんども偉そうに言うと、映画「男はつらいよ」の寅さんを思い出す。寅さんは二十年ぶりに葛飾柴又の実家に帰って、「十年ひと昔の勘定でいきゃあ、ちょうどふた昔……」と切り出す。あのセリフを借りると、わたしは「ちょうどひと昔」ぶりの実家だ。  わたしがあの映画を好きなのは、寅さんが意気揚々と「俺が帰ってきたぜみんな!」という感じなのに、地元の人たちは寅さんのことを覚えておらず「あの人誰?」状態になる、あの滑稽で愛らしい感じだ。なんというか、誰かが地元に帰るというのは、そういうものだろうと思う。わたしが何十年ぶりに実家に帰ろうが、べつになんの事件でもない。それにわたしは寅さんとは違い、絶対に帰るまいと意地を張っていたわけでもない。少しばかり嫌な思い出を、オーバーに引きずっていただけだ。いまのわたしは、まあ過去を背負わなくても生きていけるくらいには、強くなった。過去を背負ってひいひい言って、重たいふりをしたこともあったが、実は背負っていた過去は酸素ボンベで、こっそりちゅうちゅう酸素を吸っていたのだ。  まあ、そんなわたしの話はいいとして……と謙遜したいところだが、こうしてやはり十年ぶりに実家に帰るなどということをすると、あの日々のわたしが語りかけてくる。わたしのなかではそれなりの事件なのだ。さっきから頭のなかでしゃべっているこの声。覚えてる? いまのわたし。あの頃の出来事。一年前、それからまた一年前、むかしのわたしたちの伝言ゲーム。ハロー、ちゃんと伝わっているでしょうか。  武蔵境と武蔵小金井のあいだに東小金井が駅舎として誕生したのは、一九六四年のことらしい。一九六四年といえば、東京オリンピックの年だ。東小金井駅は、全額地元住民の負担によって造られた日本で最初の駅で、わたしの祖父も地元の名士としてかなりの金額を出したと言っていた。ただし、真偽のほどはわからない。わたしの記憶にある限り、祖父が言っていたことで覚えているのは「東小金井駅は俺が建てた」と「うちはこのあたりの一軒家でいちばん屋敷が大きい」の二つだけだ。どちらも自慢だ。自慢しか言わない人だった。自慢をいう時はいつも酔っ払っていた。素面のときは何もしゃべらない。結果、自慢しか言っていない、そんな残念な人だった。  東小金井駅を建てたというのが本当かどうかは知らないが、うちがかなり大きいのは本当だった。祖父はわたしが小学三年生のころ、車の運転中に大動脈瘤の破裂で急死した。それから数年後、祖母が車椅子になって、バリアフリーと老朽化対策のために屋敷全体を建て替えた。それまでのわが家は相当古いものだった。囲炉裏に強引に蓋をして隠した居間や、暗い階段を降りた先に地下保冷庫があった台所は、建て替えと同時になくなった。玄関の土間には大きな石が転がっていたがそれもなくなって(きっと何らかの意図があって置いてあった石で、それは本来は石と呼ぶべきではなくなんらかの機能として台座とか腰掛けとか呼ぶべきなのだろうけど、今となってはそれがなんなのかわからないから仕方がない)、同時に祖父の面影もわが家から、そしてわたしの記憶からもなくなってしまった。バリアフリーの賜物で、わたしの家は平べったくペシャンコになって、ますます近所の家と見分けがつかなくなった。  屋敷は生まれ変わったが、家の前の道路に面した大きくて古い門だけは、以前のままで残した。二本の柱は大の大人でも抱えられないくらい太く、その上に立派な屋根が乗っていて、夜に戸締りをするには大きな閂が必要だった。門は、わたしが生まれる前に死んだひいお爺ちゃんが子どもの頃からあったというから、百年かそれ以上昔に作られたものだ。わたしのひいお爺ちゃんは蚕を飼っていて、その前は何をしていたか知らないが、先祖代々、かなり裕福だったと聞いている。東小金井駅を建てたと豪語する祖父は、一九六四年にはまだ三十代か四十代だったはずだから、実際のところ死んだひいお爺ちゃんがお金を出したのだろうと思う。  大きな門には、「佐原」という表札がくっついている。普通のサイズの表札だが、門が大きすぎるので小さくアンバランスに見える。こういうところが貧乏くさくていけない。表札の下にうっすらと、柱の表面に、四角い形が浮かび上がっている。指先で触ってみると、四角の中も外も、すべすべした感触に変わりはない。  すでに日は沈んでいて辺りは暗い。  ふと思い出した。この四角は、今から十年前まで貼ってあったステッカーの跡だ。  ステッカーというのは、黄色い背景に警察のキャラクター「ピーポくん」がもろ手を広げて笑っているやつで、つまりわたしの家は「こども110番の家」だった。「こども110番の家」というのは、いまでもたまに見かけるが、たとえば登下校中の子どもが不審者に遭遇したとき、いつでも助けを求めて駆け込んできていいよ、と公表している家のことをいう。そういう家は玄関やポストにステッカーを貼る。じゃあそれ以外の家はこどもが駆け込んできても助けないのか、と聞きたくなるが、貼ってないよりは貼ってたほうが子どもが安心するのはなんとなくわかる、まあ、その程度のものだと思う。  わたしが高校三年生だったある日、わが家はこども110番の家ではなくなった。町はそろそろ、完全に日が暮れようとしている。わたしは昔のわたしから、わたしの家がこども110番じゃなくなった日々の話を聞くことにしよう。 ◆  わたしの家がこども110番の家じゃなくなったのは、わたしが高校三年生のときだった。わたしは偏差値ランキングで上から数えても下から数えてもちょうど真ん中にあるような、自転車で通える距離にある、家から一番近い、地元の公立高校に通っていた。もちろん、たった十年と少しで優秀な進学校になるなんてことは、この時は夢にも思っていなかった。  わたしは軽音部でベースを弾いていた。ベースというのはバンドで一番地味な楽器で、同じく目立たないドラムと同様、プロになっても同じバンドのなかでも収入が少ない。ボーカルの半分、ギターの三分の二くらいが普通だろうか。まあ、そんなことはどうでもいい。  あれは記録的な猛暑が続いた夏、わたしがベースを弾いていた『悪いケチャップ』という名前のバンドは、文化祭のステージでトリを務めることになっていた。文化祭の朝、いつもより少し早い時間にベースを背負って自室から出ると、珍しく兄がリビングにいたので「おはよう」と声をかけた。兄のタイチはテレビに顔を向けたまま「おはよ。朝から元気いいね」と返事をした。のどの奥からずるずるとフェイスタオルを引き抜くような、ハリのない、かすれた声だった。どうやら、前日の夜から徹夜していたらしかった。上品な鳩みたいなグレーのスウェットを着て、すそを捲っているので、細い腕と、白いふくらはぎが見えていた。 「タイチ、そのスウェット好きだね」 「ああ。ラッキーカラーもグレーだっていうしな」  朝のテレビの占いが、そう言っていたらしい。 「かあちゃん、泊まりの仕事だったんだな。今日何時に戻るか知ってる?」  タイチがわたしに聞く。父は海外出張なので、家にいるのは母、兄、わたしの三人だった。 「たしか夜ご飯食べて帰るって言ってたけど」 「ふうん」  タイチはこのころ、母との折り合いが悪かった。 「あれ、今日学校行くの早くない?」 「うん、今日文化祭だから。わたしバンドで出るよ」  実は、兄もわたしと同じ高校を卒業した。彼は勉強熱心で、父と同じ国立大学に現役合格したが、二年生の途中で行かなくなってしまった。だから一日中家にいる。わたしはというと、高校三年生の夏だというのに、勉強をする気配がなかった。 「今年で最後だよな。俺が聞きに行ったのは去年かね」 「いや、一昨年だね。今年はね、わたしたちがトリなんだよ。女だけのバンドでは、初めてなんじゃないかな」  タイチはようやくこちらを向いて「おお、すげえ」と言った。「なんてバンドだっけ? 見に行こうかな」  わたしは、バンド名を言うのが恥ずかしいので「いやだよ、来ないでよ」と笑ってごまかした。 「梢ちゃんも出るんだよね?」  梢ちゃんというのは、ギターを弾いている山田梢のことだ。家が近所だし、小さい頃からうちには何度も遊びに来たことがあるので、タイチもよく知っている。わたしと梢は小学校の入学式で出会って、以来ずっと仲が良く、中学も高校も同じ学校に通った。梢は幼稚園のころからピアノを習っていて、わたしと出会ったときにはすでに自分で曲を作っていた。  わたしがベースを始めたのも、実は彼女がきっかけだ。中学校の自然教室でキャンプファイヤーがあって、各クラスから何人か代表が選ばれてそれぞれ出し物をしたことがあった。空手の型を実演する生徒や、マジックをやったりする生徒がいて、最後に梢がギターの弾き語りをした。たきぎを背にしてギターをかきならす梢はめちゃくちゃかっこよくて、中学二年生だったわたしたちは、男女問わず全員が梢にあこがれて、自然教室から東京に戻った翌週には学年の半分がギターを始めていた。残りの半分も、おそらくこっそり始めていたに違いない。休み時間はコードの押さえ方の話題で持ちきりだった。わたしはというと、それ以前から梢の家に遊びにいくたび、彼女にねだってギターやピアノを演奏してもらっていたので、旧友の突然の人気っぷりに嫉妬しつつも、無い知恵を振り絞り、ベースであればいつも一緒にいる梢と比べられることもないし、もしかすると梢とバンドを組める日が来るかもしれないと企んだ。そして高校生になって、同じ軽音部に入り、企みは現実となったのだ。 「梢ちゃんに会いたいなあ」  タイチはまたそんなことを言っている。タイチは小学生のときから、ずっと梢のことが好きらしかった。梢ちゃんを家に連れて来いと、しょっちゅうわたしに言った。わたしは「自分で誘いなよ」と言い続けていた。おそらく兄は、梢と直接話をしたことは一度も無かったはずだ。 「バンド名、悪いケッチャップ。たぶん十四時くらいに演奏する。よかったら来てよ」  もし本当に来るんだったら、兄のためにもいいはずだと思い、わたしは誘ってみる。 「梢ちゃんにも会えますよ」  ところがタイチは、もう一度こちらを向きなおして、難しそうな顔をして「うん、まあ、俺は家にいなきゃいけないからな」と優しさ半分、険しさ半分といった表情で言った。  その言葉を右から左に流して、「ん、それじゃ、行ってくる」とわたしは玄関を出た。  演奏用の舞台は、例年通り第二体育館の一階に設営されていた。  ふだんは体操部員がぽんぽん飛び跳ねているトランポリン台の上に、ベニヤの板が何枚も重ねられて、立派なステージに変貌していた。いや、本当はトランポリン台をそんな使い方してはいけないと思うが、それが伝統なのだから仕方がなかった。  トランポリン台の周りにあった巨大なマットが見当たらなかった。どこに移動させたのだろう。第二体育館の床はベチベチのコンクリートなので、マットがないとトランポリン中に外に投げ出されたとき、死んでしまう。昨年、ステージの設営班がマットを撤去した際、学校裏の遊歩道に不法投棄気味に置いていたせいで、地元住民が通報して市役所に持っていかれてしまった。なんとか翌日には持ち帰ったが、体操部の部員と顧問にブチ切れられた。設営班にいまいちど、マットをどこにやったのか聞いて、ライブが終わったらちゃんと元に戻さなければならない。わたしたちのバンドは撤収班で、片付け担当なのだった。  早朝のステージには、まだ誰もいなかった。体育館ごとしんと静まり返っている。こんなに静かな場所が、あと数時間すれば熱気にあふれた場所になると思うと、不思議な感じがした。見上げると、天井の鉄筋のあいだには、なぜか大量のバレーボールが挟まっている。故意に打ち上げたとしか思えない量だ。産み付けられた虫の卵みたいで気持ちが悪かった。  西側の、巻き上げ式の電動シャッターのボタンを押す。がたん、と大きな音がして、ワイヤーに持ち上げられた四つの巨大なシャッターがゆっくり上がっていく。外からの光が差し込んであたたかいのと、照らされた空気のなかに、ちいさな埃がちらちらと飛んでいるのが見える。  お昼すぎ、太陽が昇りきると、風が通らない体育館はサウナ状態になる。十代の男女がもみくちゃになるステージ付近は異様な熱気に包まれる。  わたしたちはそんな体育館の二階にいた。第二体育館はもともと第一体育館だったが、数年前に新しい体育館ができたせいで第二体育館に繰り下がっていた。かなり古い建物で、屋根裏部屋のような二階が出番を待つバンドの控え室になっていた。上からはトタン屋根が受けた熱が伝わり、下からはバンドの演奏と人々の熱気が間欠泉のように噴きあげる。最後から二番目の、実力派の後輩バンドの演奏がかなり盛り上がっている様子だった。わたしは五枚重ねられたマットの、それほど高くない段差に梢と二人で座っていた。何もしていなくても汗が吹き出る。梢は無意識だろうが、さっきから上履きのかかとでマットの耳を引っ張ってちぎろうとしている。二階は普段、トランポリン以外の種目の体操部員と卓球部が使う場所で、薄暗い室内に跳び箱や平均台、鞍馬や鉄棒があって拷問部屋みたいだった。しかも、かなり埃っぽかった。  ドラムの水野はイヤホンをつけて、ひとり黙々と鞍馬をスティックで叩いている。バンドでいちばん練習熱心なのは水野だ。中学一年生からドラムを叩いているから、実力も大したもの、と言いたいところだが、いかんせん身体が小さくて、力がないので音に迫力がない。ボーカルの遠矢は、水野のことを「へなちょこ」と呼んでからかっている。その遠矢江子は背が高くて、見た目は華奢でスリムだが兄の影響で空手を習っていたこともある武闘派だ。体操用具がある場所からネットで区切られたむこうに窓から差し込んだ光に照らされて卓球台が八台並んでいて、遠矢はそのいちばん奥で演奏が終わったほかのバンドのメンバーと卓球をして遊んでいる。無邪気に笑う遠矢を見ながら、それまで黙っていた梢が不意に口を開いた。 「文化祭もこれで最後だね」  梢は、悪いケチャップのリーダーで、担当しているギターのほかにもキーボードやドラムに堪能で、作詞作曲もひとりでこなしている。彼女がいなかったら、今日の舞台はなかった。 「校長先生、見に来てるかな」  梢は、さいきんしょっちゅう校長先生のことを気にする。梢が校長先生を気にするのには、理由がある。 ◆  二年生のときの文化祭で、わたしたちは最後から三番目に演奏をした。自分たちの演奏が終わって、興奮冷めやらぬままドタドタと階段を登り、いままさに遠矢が後輩にスマッシュを打ち込んでゲラゲラ笑い転げている卓球台で、四人でダブルスをしていたときだった。下のステージの演奏が、突然ぴたりと止まった。最初は誰も違和感なく試合を続けていたが、疑問に思ったらしい遠矢が「もう終わったのかな、見てくる」というのでわたしもついて二人で降りていった。階段を降りる途中で、遠くから救急車のサイレンが聴こえてきて、わたしと遠矢は顔を見合わせた。  一階では、先ほどまでのステージ前の人だかりが消えて、がらんとできた穴の真ん中で女性が倒れていた。女性は制服ではなく、薄い黄色のワンピースを着ていた。  その女性は、石田有果子といって、一年生の女生徒の姉だった。たまたま大学の授業がなかったので、妹の文化祭に遊びに来ていたらしい。演奏を聴いていた人の話によると、会場の盛り上がりが最高潮に達したとき、どこからともなくステージにリンゴが投げ込まれた。ジョナゴールドとかフジとかがある、果物のリンゴだ。それがボーカルの男子生徒の頭に当たって、ステージの上を転がった。なぜ突然リンゴが投げ込まれたのかは誰もしらない。まあ、そのようなことはよくあった。蒸し風呂状態の熱気と、ずいぶん無茶に増幅された各楽器の割れんばかりの大音量のなか、何が起きても不思議じゃない雰囲気ではあった。さらにありがちなことだが、観客を差し置いていちばんテンションが上がっていたのはバンドであり、とりわけリンゴが頭に当たったボーカルは叫びすぎて正常な判断力を失っていた。彼はリンゴが当たって痛かったわけでも、恥ずかしかったわけでもなかったが、とりあえず転がったリンゴを拾い、オーディエンスに向かってえいやと投げ返した。なんの悪意もなく、パフォーマンスとして。リンゴは一直線に飛んでいって、女性のまぶたにあたった。女性が倒れてうずくまると、さすがに演奏が中断されて、会場は騒然となった。  そんなことがあり、文化祭が終わって一週間も経たない時点で、学校から「来年の演奏は中止」と発表があった。ひとりの男子生徒の度が過ぎた行為によって翌年のステージ自体が中止という判断に、わたしたちのような軽音部の部員も、生徒の自主性を重んじる生徒会も文句を言って立ち上がったが、学校の決定事項は覆らなかった。  もともと偏差値の高くない高校だったので、そのなかでもバンドをやっていたような人間はあまり学業がよろしくなく、わたしも遠矢も水野もバカなのであまり発言権がない雰囲気だった。そのうち、運動部の雄たちによる夏のインターハイの結果が出て話題をさらうころには、全校生徒はもちろん、軽音楽部の部員でさえも事故のことや来年のステージのことを忘れて語らなくなっていった。わたしたちだけが諦めきれず、悪いケチャップの四人全員で、石田有果子の家まで謝りに行ったこともある。あの事故で、彼女は片目を失明したという噂が立っていた。大学も休んでいるらしかった。  冬が近づいてきて、寒い日だった。  呼び鈴を押すと、インターフォン越しに本人が出た。名前を告げると、「お待ちください」と言われ、すぐに玄関の扉を開けてくれた。  石田有果子は紺色のセーターを着て、ベージュのチノパンを履いていた。風が家の中にびゅうと入って、彼女の薄着には少し寒そうだった。肩までかかった茶色の髪が内側にカールしていて、身長が遠矢と同じくらいか、それ以上に高くて、モデルのような人だった。右眼にはまだ眼帯をしていた。  玄関先で遠矢が「すみません、謝りに来ました」と言うと、女性はきょとんとした顔で「何をですか」と聞いた。 「萌有乃の友達ですか?」 「いえ、違います」わたしが言った。萌有乃、というのは、彼女の妹で、わたしの高校の下級生だった。わたしたちは、妹のほうとは面識がなかった。 「リンゴをぶつけてしまった件で、わたしたち、その二つ前に演奏をしていたバンドでした。わたしたちも謝りたくて来ました」 「あ、ありがとうございます」  石田有果子は少し動揺したようだが、上手に愛想よく笑った。 「みなさんの演奏、聴きました。来年も頑張ってください」  ありがとうございます、と水野がいちばんに声を上げた。少しの間、会話が止まる。どうやら、家に上げてくれるつもりはなさそうだった。 「あの、今年は私たちが最後を締めくくれるように、練習してるんです」水野が言う。すると、 「今年も聴きに行きます。今年は、妹も出るんです」と石田有果子が言った。 「今年はあるかどうかわかりません。いまのところ、ステージは中止の予定です」 「そうですか。残念ですね」  石田有果子は本当に残念そうにうつむいた。  それでは、と遠矢が言った。ありがとうございました、と四人で頭を下げると「こちらこそ、寒い中わざわざありがとう」と優しい声がして、「それでは」と玄関の扉が閉まった。  石田有果子の家から駅に向う途中、歩きながら、わたしたちは終始無言だった。練習終わりにたまに立ち寄る牛丼屋に、その日も入った。 「結局なにがしたかったんだろうね、わたしたち」  わたしが言うと、遠矢が「本人に謝れて、よかったじゃん」と言う。 「でも、そもそもわたしたちは何もしてないよ、悪いこと」  梢が言うと、もう一度全員が静かになった。 「わかってはいたけど、石田有果子がステージの中止を求めているわけではないんだね」とわたし。 「そんなわけないじゃん」  遠矢が言う。 「え、じゃあ何のために謝りに行ったの」と梢。 「石田萌有乃ちゃん、一年生の。バンドやってるのかな」  水野が話題をそらす。 「たしかに、言ってたね。今年は妹も出るんです、って」 「わたしはさ、正直」梢が続ける。 「怒鳴られたりするのかと思った。なんでわたしがこんな目に遭わなきゃいけないの、とか。文化祭のステージなんてなくなっちゃえ、とか言われるのかとおもった」  わたしもそう思ってた、と出かかったときに、水野は「えー、そんなわけない」と言った。 「あんなにいい人そうな人が、怒鳴るわけないじゃん」と遠矢、「いや、それは会う前はわからなかったでしょ」と梢。めげない遠矢が「別にあの人は関係無いんじゃん、今度のステージとは。わたしは、ただ謝りに行かなきゃって思っただけだな」と続ける。髪留めを右手でぐりぐりしながら、相変わらず物怖じしない。 「じゃあさ、なんで謝りに行かなきゃって思ったの」と遠矢に梢が言った。その声は、少し混乱して、怒っているようにも聞こえた。 水野が横から口を挟む。 「気持ちの問題じゃない? わたしはただバンドがやりたいんだけど、そのせいで誰かが傷ついてるかもしれないっていうときに、その人の様子を知りたいし、傷つけたなら謝りたいなって思うから」 「謝って、許してくれなかったら?」とわたし。「それでもやるよ」と水野と遠矢。  遠矢が続けてゆっくり口を開く。 「あ、なんか気づいたかも」 「なに」わたしが遠矢の顔を覗き込む。 「なんかね、ひとり失明した、それがなんだ、みたいな気持ちになってた」  遠矢は目を丸くして、いつもより縦に長い顔になっていた。 「校長室に突撃して、生徒会に懇願しに行って、署名集めてってやってるうちにさ。部外者が勝手に怪我して、なんでうちらがこんな冷たい目で見られなきゃいけないんだ、って思ってたなあ」  わたしは思い当たる部分があって少しどきっとする。 「たぶんさ、ムカついてたんだとおもう、石田さんに。謝りに行ってよかったよ。もちろん彼女に罪はなかったし、わたしたちにも罪はなくて、でも別に文化祭が全てじゃないしさ。わたし結構どうでもよくなったかも。それよりさ、ライブハウスでまた企画やって、そんでもっといろんなイベントに声かけてさ、呼んでもらおうよ」  ちょうど牛丼が四杯届いた。遠矢は大盛り、わたしと梢は並盛り、水野は小盛り。わたしはなんとなく、納得がいくような、いかないような、そんな気持ちのまま、マツモトキヨシに寄ってどの化粧品がいいだとか小一時間おしゃべりをしたのち、帰路に着いた。 ◆  わたしたちは石田有果子に対面して以来、文化祭のステージ復活に向けて息を荒げることはしなくなった。自分たちの曲を作って、練習して、地元のライブハウスで自主企画を組んでほかのバンドを呼ぶので精一杯だった。もともと、音楽で表現をするのが好きだというような人間たちは、自分たちに有利な資料を集めて誰かを交渉ののち説得する、なんてことには向いていないのだと分かった。そういうことができないから、わたしは音楽やってんだな、と思った。  地元のライブハウスでの演奏が目に止まり、新人バンドのハンティングイベントに招待されることになったので、冬になるとさらにそちらに注力するようになった。梢はライブやメジャーのオーディションに向けて新曲を作りながら、わたしたちとは違い、学校の勉強も順調に進めていた。  さらにこのとき、梢はバンドのみんなが知らないところで、粘り強く生徒会やPTAを巻き込んで、文化祭ステージ復活に向けて少しずつ周囲を説得をしていた。彼女はそういうことができる人間なのだ。お母さんがPTAの副会長をやっていたこともよかったのかもしれない。  決定打になったのは、四月になって新しい校長が転任してきたことだった。梢は四月一日の始業式の直後、漢文の授業を欠席して校長室に直談判に向かった。それにはなぜかわたしも同行した。「あんたは地元の名家の娘なんだから、いるだけで意味がある」らしかった。同時にその発言は「黙っていればいいんだから余計なことは言うんじゃねえぞ」という脅しでもあったが。それを察してわたしは一言もしゃべらなかった。  校長室に入ると、荷ほどきの手を止めた校長はこちらを向いて「はじめまして」と笑った。いきなり現れたわたしたちにも、とても紳士に、丁寧に接してくれた。歳は六十近くだと思われたが、背筋はしゃきんとしており、ふさふさの白髪はウェーブがかかっていて、往年のロックスターみたいな風貌だった。聞くと音楽の経験はないが、若い頃に役者を目指していた時期があるのだと照れながら告白した。 「君たちみたいなエネルギーに溢れた世代から、表現の場を奪ってはならないね」  校長は恥ずかしげもなくそう言うと、屈託なく笑った。 「約束するよ。ライブのステージは必ず復活させよう」  無言のわたしにどれだけの威光があったのかはわからないが、こうして校長はあっさりライブのステージを復活させると約束してくれた。  そうした経緯があって、わたしたちの最後の文化祭、最後のステージは最高の盛り上がりだった。もし、これまで演奏した中でいちばん興奮したステージをひとつ選べと言われたら、わたしは間違いなく高校三年生の文化祭と答えるだろう。  アンコールの声に応えて最後のオリジナル曲を演奏する直前、梢が「こんなに素晴らしいステージの機会を与えてくださった、校長先生に感謝の言葉を伝えたいです。ありがとうございます」と言って頭を下げた。梢がステージの上でしゃべったのは、いろんなライブハウスを含めて、高校の三年間であのときだけだ。割れんばかりの拍手が起こり、何人かの生徒が「ありがとー!」と叫んだ。校長に対しての感謝なのか、わたしたちに対しての感謝なのかはわからなかったけれど、とても嬉しかった。兄は来ておらず、石田有果子も来ていなかった。石田萌有乃は、わたしたちのなんこか前のバンドで、二年生に混じって普通にギターを弾いていた。 ◆  文化祭が終わって、軽音楽部の三年生は引退した。みんな、マイクやギターやスティックを置いて、一斉にシャープペンシルに持ち替えて、受験勉強に取り掛かり始めた。少なくとも、表面上は。  でも、わたしはぽかんとしていた。ベースを置いて、かといってシャープペンシルを手に取ることもなく、ときたま右手でエアベースを引きながら、ぽかんとしていた。周りは受験勉強に本腰を入れ始めた。わたしは時折机に向かっては、どこから分からなくなったのかすら分からない教科書の山を見てめちゃくちゃ重たい気持ちになった。覚えるべきこと、やるべきことが書いてある教科書は、長年溜め込みすぎて目の前に二メートルくらいの高さにまで積み上がっていた。その大盛りの山を、少しずつでも片付けなきゃいけないことは分かっているが、高くなりすぎていて目の前にある一冊を引き抜くこともできなければ、てっぺんにある一冊には到底手が届かない。ああ、これは一体どうしたらいいんだろう、と思って泣きたくなる。泣きたくないので机から離れる、その繰り返しで時間が過ぎた。  悪いケチャップはそれまで、高校を卒業したらこのバンドで食べていこう、という共通認識を持っていて、誓約書を書いたわけではないが、抜け駆けはなしよ、という雰囲気があった。メジャーのオーディションでもいいところまで残ったし、自主製作のアルバムも三百枚売った。三百枚売った高校生バンドは周りにひとつもなかった。自分たちが頭一つ抜けている、という感覚はあった。  ただ、文化祭が終わって、運動部のインターハイも終わって、学校の雰囲気が明らかに変わった。それまで部活で全国トップの成績を残していた生徒も、当然のように勉強を始めていた。「騙された!」と思った。周りの同級生たちは、わたしたちよりずいぶん大人だったのだと知った。彼らは野球が好きだったのでもサッカーが好きだったのでもない。演劇やトランペットが好きだったのでもない。ただ、自分が選んだ選択肢に、真面目にひたむきに取り組んだだけなのだ。「目の前のやるべきことに全力で取り組む」エネルギーを、今度は学校の勉強に向ける、彼らにとってはそれだけのことらしかった。そういう切り替えができるやつが、いつも成功する、とこの頃のわたしは思っていた。この頃の、わたしは。  翌日の文化祭の打ち上げを最後に、リーダーの梢からは何もアナウンスがなくなった。学校も自習ばかりだったのでわたしはどうしても行く気になれなかった。それまでは必ず月に二回以上埋めるようにしていたライブハウスの予定も空っぽだった。悪いケチャップが今後どうなるのかまったく分からないまま、文化祭から一週間が過ぎた。わたしは兄のタイチ同様、家に引きこもっていた。そもそも、詞も曲も書ける梢の才能なしには、悪いケチャップの将来は考えられないような気がした。  文化祭から一週間が過ぎて、まだまだ残暑が厳しくて暑い日、日曜日だったから安心して家にいた。平日に家にいると、罪悪感からかダラダラと過ごしてしまうが、休日は少し元気になる。クーラーをガンガンに効かせた部屋でベースを弾いていたらノッてきて、部屋の外で電話が鳴っているのにも気づかなかった。そのときヘッドホンで聴いていたエイジアン・ダブ・ファウンデーションのギターのエフェクトが、プルルルルと変なひずみを鳴らしているのでおかしいなあと思っていると、しばらくしてようやくわが家の固定電話が鳴っているのだとわかった。リビングの親機に駆け付けたときには、かなりのコール数が経過していた。 「もしもし」わたしが受話器を取ると、「ああ、キハルか」と父の声がする。 「お母さんじゃないよ。わたし。れんげ」 「ああ、れんげ。声が似てるから間違った。あさって帰るってかあさんに伝えてくれ」  あいかわらずぶっきらぼうに父は言った。一年ぶりに帰るというのに、それだけ言うとすぐに電話が切れた。何時の飛行機かも言わなかった。  受話器を置いて、ふう、とひと呼吸つく。困ったことになった。父は一年のうちほぼ三百六十四日を海外で過ごしていて、この家にはほとんど帰ってこない。前回の父の帰国から、いろいろなことがあった。兄は大学を辞めて、母親のダンボールも増えた。そうだ、ダンボールのことにも言及しなきゃいけないだろうが、またあとで。そしてわたしは、大学に行くつもりがない。父は、わたしが大学に行かないと言ったら、なんというだろうか。いや、そもそもわたしは、本当に大学に行かないのだろうか?  勉強のことと同様、父のことを考えると億劫だった。父は大学時代は六大学でラグビーをやっていてそれなりに活躍し、新卒で総合商社に入社した。以来、仕事ひとすじ三十年の人間だ。  わたしがバンドで生きていくと言ったらなんというだろう、とそればかり考えて暗い気持ちになっていた。父は音楽はビートルズしか聴かない。ビートルズ以外の音楽は聴いたこともないくせに、「この世のビートルズ以外の音楽はすべてビートルズ以下だから聴く必要がない」と決めつけている。直接そう言ったのを聞いたわけではないが、父の考えていることはだいたいわかった。そんな男に、今後のわたしの方向性をどう伝えればいいのだろう。  わたしは母親の部屋より先に、兄のタイチの部屋に向かった。ノックもせずに入る。それで怒られたことはなかった。兄は予想通りこちらに背を向けてパソコンをしていた。 「お父さん、あさって帰ってくるらしい」  キーボードを叩く手が止まる。クーラーのゴーという音が響く。ゴー、ののち、カタカタという音が再開する。 「ふうん、アフリカから?」 「南米ね」 「ああ、なんべい」  アフリカだろうが南米だろうが関係ない。タイチの状況は、わたしよりもピンチだった。彼はこの一年のあいだに大学を中退し、家から一歩も出ない引きこもりになった。父はそのことを全く知らない。 「どうすんの。大学辞めたのバレるよね」 「うん、バレる、な」  なにもアイデアはないらしかった。 「でも俺はほら、いなきゃいけないじゃん、家に、な」  兄は困るとそればかりだった。タイチは、自分が家にいなければならないと思っていた。思っていた、というか、思い込んでいた。その理由は、わが家がこども110番の家であることに関係していた。  こども110番の家は、いざという時、つまり本当に子どもが助けを求めて駆け込んできたときのために、常に誰かが家にいることが望ましいとされている。実際の在宅率がどうなのかは知らないし、普通に考えてどんな家だってときおり留守にするのは仕方がないと思うが、少なくとも警察には誰かが家にいるよう指導をされたうえで、あのステッカーを貼っていた。  わたしは高校生だから基本的には平日の日中は高校に行くし、母もアニバーサリープランナーという怪しい肩書きで仕事をしていて、他人の記念日を祝ったり講演をするために外出することが多かった。そういうわけだから、自分が家にいなければならない、というのが兄の理屈だった。なんじゃそりゃと思うが、どうやら彼は本気でそう信じていて、現にわたしと母が外出しているときは玄関まで椅子を引きずってきて、そこでパソコンをカタカタやっていた。朝から晩まで、子どもが助けを求めて飛び込んできたらすぐに対応するために、大学を辞めてから一年間、ずっとそうしていた。ご丁寧に、椅子には金属バットを立てかけて、犯人の暴力にもすぐに応戦できるようになっていた。華奢な兄が、はたして金属バットをスイングできるものか、怪しくはあったけれど、それについて触れたことはなかった。  わたしはそんな兄を見て、なにも言えないでいた。本来意味のないところに無理やり意味を見出してなんとか生きがいにしている人に対して、「それ意味ないんでやめたほうがいいですよ」とはなかなか言えない。それに、サラリーマンもバンドマンもフリーターも、どれだけ意味があるのかなんてわたしにはわからなかった。タイチは優しいし、真面目だし、家にいていつでもわたしの話し相手になってもらえるのは、むしろ大歓迎だった。  わたしはタイチが大学を辞めてからというもの、あらゆる場面でタイチを弁護して、母の「近所に合わせる顔がない」という文句もなだめてきた。ただ、父だけは本気で怖いので、わたしにはどうすることもできない。というか、わたしだって本来受験生なのに勉強を一切せずにベースばかり弾いているのがバレたら雷を落とされるに違いなく、どう考えても父は「110番の家だからいざというときのために家にいなければならない」という兄の狂気じみた説明を受け入れるはずがない。決して気を遣って「子どもたちの安全を守るために、ガンバレ」などと言える人ではない。商社勤めで世界中を飛び回り、欧米仕込みの合理性に染まった父は兄を見るなり「お前なにやってんだ?」と突っ込んで、彼の生きるよすがをまっとうに、正しく、全否定してしまうに違いなかった。 「どうする。明後日だってよ」  わたしはいまいちどタイチに聞いた。 「どうするも、こうするも、伝えるしかねえだろうな」 「大学やめたことを?」  タイチは口を一文字にぎゅっと締めて、覚悟を決めたようだった。 「いや、こども110番という重大な使命を」  波乱の予感しかしない。 「なあ、うちがこども110番の家になった日のこと、覚えてるか?」  兄の発言にわたしはドキリとする。「うちがこども110番の家になった日のこと」。なんだそのメモリアル。「ないです」と答える。 「そうだよな。れんげはまだ幼稚園だったからな」  少し笑いながら、兄は目を細めていた。 「あれは俺が小学一年生で、夏休みが明けてまだまだ暑い日が続いていたときのことだったな。その日は授業が午前中までで、俺は給食がないから凹んでた。みんなで食べる給食が大好きだったんだよ、俺は」  パソコンをタイプする手が止まっている。わたしは兄のベッドにうつぶせで寝転んで、勝手に読んでいた漫画から顔を上げて、タイチの後ろ姿を凝視していた。 「帰りの会で、池田先生がプリントを配ったんだ。おまえの二年生のときの担任でもあった、池田修一先生な。いまでも俺の憧れの先生だよ。『こども110当番の家 ご協力のお願い』ってタイトルでな、はっきり覚えているよ。そのプリントを持ち帰って、かあちゃんに見せた。そのころはまだ、うちにおばあちゃんがいただろ。こども110番の家になるには、家に必ず誰かがいなきゃなんねえんだよ。うちはおばあちゃんがいたから、協力します、うちもこども110番の家になります、ってチェックを入れて、かあちゃんにサインを書いてもらってさ。翌日池田先生にそのプリントを提出して、かわりにステッカーを受け取った……それが、今もうちの門の柱に貼ってあるステッカーなんだよ」  ピーポくんがもろ手を広げて笑っているやつだ。 「あのとき俺は約束したんだよな、池田先生と。地域の安全は、俺んちが守るってさ。俺、そのこと忘れてたんだよ。おばあちゃんが死んだとき、俺の手を握ってさ、最期に何か言おうとしてただろ、みんなで病院に行って、一晩中、ベッドのそばにいてやったとき。あのときおばあちゃんがなんて言おうとしてたか、俺、やっとわかったんだよ。くちをゆっくり動かして、何かを伝えようとしてた。ひゃく、とお、ばん、って言ってたんだな、あのとき。つまり、こども110番の家の義務を、責任を、名誉を、まっとうしてくれって、そういうことだったんだよ」  わたしはちょっと笑ってしまった。ふっ、という声が静かな部屋に響いた。すぐにあわてて咳払いをした。弁解をさせてもらうと、笑いたくて笑ったんじゃなくて、とっさにああ、これは笑うしかないな、と思ったのだ。笑うことで兄を救えるような気がしたのだ。 「まあ、そういうことだから、たぶんとおちゃんもわかってくれるだろ」  兄はそこで考えることをやめたようで、再びパソコンに熱中し始めた。たぶんとおちゃんはわかってくれないし、そもそも、おばあちゃんは臨終のとき河童のくちばしみたいな呼吸器をつけていて何も喋れない状況だったような気がしたが、そんなことをあえて言うのも野暮だと思われたので、黙っておくことにした。  母の部屋の扉をノックする。一度コンコン、と叩いても返事がない。もう一度、コンコン、とやると「はい」と返事が聞こえた。わたしは半年ぶりくらいに母の部屋に入った。引きこもりの兄の部屋よりも空気がこもっていて、体に悪い感じがした。  中に入ると、父の書斎にあるやつよりも大きくて立派な机に、母はうつ伏せで突っ伏していた。黒くて長い髪が机の上で四方に向いて広がっている。飾り付けの練習に使ったのか、七つか八つ、ピンクの大きなハート風船が、壁にもたれかかるような格好でシワシワになって浮かんでいる。  一応、どうしたのか聞かなければならない雰囲気だと判断して、 「どうしたの」  と聞いてみる。  返事がない。 「ねえ、大丈夫?」  肩にそっと手を乗せると、 「本が、出せなくなった」  わりと大きめな声で、はっきりと母は言った。ああ、これは面倒くさいぞ、とわたしは二匹目の苦虫を噛み潰した表情になった。一匹目は、うつ伏せのうしろ姿を見たときにすでに噛み潰していた。 「どうしたの。本って、叡智出版から依頼があった、アニバーサリーの?」  また返事がない。母に出版社から単著の依頼があったのはもう一年くらい前のことだ。自分の本が出せることになって、母はものすごく喜んでいた。とても得意げで、誇らしげだった。 「ひどいね。お母さん、一生懸命書いてたのにね」わたしは励ました。台所でビールばかり飲んでいてろくに書いていないということを知っていたので、あえて傷口をえぐるようなことを言ってみた、ともいえる。すると母は顔を上げて、 「わたしの本、燈屋サエっていう女に取られたの」  と意外なことを口にした。一瞬、ほう、と思ったが、わたしのほうを向いた母のぼさぼさの前髪の間から、あきらかにアイシャドーを塗りたくった「にせもののクマ」をぶら下げた、ガラの悪そうな目が見えて、ウエッ、と思った。一体なんのためにこの人は、わざわざ自分の不幸を加速させるような演出を施すのだろう、という疑問がわき上がってきた。 「あかりやさえ? アイドルの?」 「元アイドル。も・と。今はママタレント。二歳のクソガキにパーマ当ててる。事務所の方針でアニバーサリープランナーとして売り出すらしい。それで燈屋サエのゴーストライターをやってくれって言われた。失礼千万。ぶん殴ってやったわ」  ああ、口が悪いなあ、と思った。ぶん殴った、というのは、担当の男性のことだろう。そもそも、順調に執筆が進んでいれば半年ほど前にすでに本は出ていたはずだ。人の良さそうな男の担当編集者がわが家に来て、キハルさん、なんとか原稿すすめてくださいよ、と母に直訴しているのを何度も見たことがある。約束通りに原稿を書けなかったのは母で、それでもなおゴーストライターとしての依頼を出して期限を引き延ばしたのは、編集者の最後の優しさだろう。それなのに母はその申し出を「失礼千万」と断ったらしい。どっちが失礼かわかったものではない。 「わたしは人の記念日をお祝いするのが、心から大好きなの! それなのに、わたしじゃなくて売名目的の、金儲けのためのクソママタレントが本を出すなんておかしいだろ!」  なお断っておくが、母は普段はニコニコ愛想がよく、腰が低く丁寧に挨拶をするので近所ではおしとやかで美人な奥様で通っていた。  母は怒りが頂点に達したことをわたしに示すべく、アップルの薄いパソコンを両手でむんずと持ち上げ、本人は椅子に座ったまま、わたしが立っているのと反対側、つまり左側の壁に向かって体を大きく捻ってえいやと投げた。一直線に飛んで行ったパソコンはガズンと音を立てて、なんと壁に突き刺さった。わたしは最近のパソコンの薄さと堅牢さに感心した。母は投棄後すぐに顔を落としたが、とんでもないことが起きていると気づいたらしく壁のパソコンを二度見した。今がタイミングだ、と思い、 「あの、お父さん、帰ってくるらしい」と伝えた。さすがに「突き刺さりましたね」とは言えなかった。  父が帰ってくると聞いてこちらを振り返った母は露骨に嫌そうな、憂鬱そうな顔をした。見ようによっては愛嬌のある、アメコミによくある「イー」というような表情だ。ポーカーフェイスのタイチとは大違いで、ほんとうにこの人の表情は豊かだ。  母が父の帰国を嫌がる原因は、タイチの大学中退を防げなかったということもあったろうが、それ以上に、父の書斎を倉庫として使っていることにあると思われた。  母はアニバーサリープランナーという仕事柄、飾り付けに使うバルーンや旗、壁に貼り付けるシール、ポンポン、リボン、モール、LED、三角帽、その他もろもろの在庫を大量に抱えていた。もともとの物置部屋に加えて、死んだおばあちゃんの部屋も使っていたがとうとうあふれはじめ、ダンボールの山はいつのまにか父の書斎にまで及んだのである。ダンボールはわが家のスペースと健全な精神を、徐々に侵食している感じがした。父が帰ってくるまでに、なんとかして彼の書斎を元どおりにしなければならない。それが母を憂鬱にさせたのだろう。  母と当たり障りの無い会話をしたのち、ひとりで書斎を見に行くと、ダンボールの数は三十箱ほどで、ためしにひとつ持ち上げてみるとめちゃくちゃ重かった。一体どうしてアニバーサリーにこれほど重いものが必要なのか、と思われた。漬物石か。アニバーサリーたくあんでも漬けるのか。このダンボールの整理にわたしも駆り出されるのだろうと思うと、非常に気持ちが重くなった。わが家は近所でもかなり広い敷地を持っているのだが、なかでも父の書斎はリビングに匹敵するくらい大きかった。可動式の本棚が、何重にも奥まで続いている。読書家の父はこの書斎をわりとオープンにしていて、いつでも好きなときに入って好きな本を読みなさい、とわたしたち兄妹に言っていた。残念ながらわたしたちは、本を読まず漫画ばかり読んでいたので、小さい頃から主にかくれんぼのためにこの書斎を使っていた。奥のほうの棚にはほとんど本が入っておらず、子どもの体であれば横になるとすっぽり収まるのだった。  母の仕事であるアニバーサリープランナーはどういう仕事かというと、誕生日や記念日が盛り上がるための、飾り付けや演出についての専門家、ということらしい。日本ではあまり馴染みがないが、海外ではある程度知られた仕事らしく、近年、徐々に日本でも増えてきていると本人は言っている。  母はもともと、イベントものが大好きな人だった。わたしたちが小さい頃から、誕生日には必ずパーティが開かれ、そのたびに「とにかくたくさん友達を呼んで来なさい」という命令が下された。最初はよかったが、年齢が上がるにつれ、自分の誕生日パーティを母が張り切って主催する感じがどんどん嫌になってしまい、わたしは十歳でついに「プレゼントはなにもいらないから誕生日パーティだけはしたくない」と母に告げた。母は泣いた。かわいそうなくらい、大げさに泣いた。それ以来、わたしの誕生日も兄の誕生日も、母はなにもしてくれなくなった。ケーキも買ってこないし、もちろんプレゼントはナシ、「誕生日おめでとう」のひとことも言わなくなった。兄はよくわたしに「うちの誕生日が殺伐としているのはれんげのせいだ」と言った。たぶんわたしが誕生日パーティを否定しなければ、兄はいくつになっても自宅に友達を呼んで母親仕切りのパーティを毎年開催していただろうと思う。そういう男なのだ、兄は。  家の中で誕生日パーティができなくなった母は、外に出て他人の子どもの誕生日パーティを祝いはじめた。なぞの創意工夫と情熱は評判を呼び、彼女はいつしかアニバーサリープランナーと自称しはじめて、個人事務所まで立ち上げたのだった。 ◆  父が帰国した日の夜、わたしは珍しく高校の自習室で勉強をした。そして家に帰って、制服のまま家族でいちばん最初に食卓についた。台所で母が料理を作っていて、完成にはあと少し時間がかかりそうだった。焼いた鶏肉とコンソメと、炒めたたまねぎのおいしそうな匂いがしていた。彼女は銀色の缶ビールを飲みながら料理をしていた。手際よくフライパンや包丁を扱いながら、ときおりビールにも手を伸ばす。ビール、炒める、ビール、食器を洗う、炒める、ビール、かきまわす、ビール。トントン、ジュウジュウ、小気味よい音に包まれながら、母そのものは実体のない幽霊みたいだった。ノースリーブから伸びた腕を見て、ぶよぶよしていて太くなったなあ、と思った。  父がほぼ年に一度だけ、海外から帰ってくる日以外は、家族が揃って食事をする機会はゼロだった。毎晩の母の手料理を、わたしもタイチもひとりになるようにタイミングをずらして食べていた。そして母は、椅子に座ってちゃんとご飯を食べることはなかった。作りながら食べて、飲んでいるのだった。  幽霊みたいにふわふわした母のうしろ姿をぼんやり眺めていた。三本目の350ml缶が開く音がした。  父が現れた。久々に見た父は背が高くて、記憶のとおり健康的に日焼けしていた。驚いたのは、眼鏡をかけていたことだった。それまで父が眼鏡をかけている姿など見たことがなかった。以前より少しお腹が出たような気もするが、半袖のシャツから伸びた二の腕は筋張っていて、相変わらずたくましい。 「おかえり。久しぶり」  わたしがいうと、席に着く父が、おう、と返事をする。相変わらず声がでかい。それに眼鏡の奥の眼光が鋭い。家の中でなぜそんなに鋭くある必要があるのか、と思う。いったい何を見ようとしているのか。 「元気してたか?」  父が聞く。 「わたしはね」  わたしが答える。わたしはね、でも他の家族はどうだろうね、というように。 「文化祭でバンドやったらしいな。何やったんだ」  そういう情報は誰から仕入れているのだろう。母にはバンドのことを話したことなんてほとんどないし、タイチもまだ父とは会話を交わしていないはずなのに。 「カバーじゃなくて、全部オリジナルの曲だよ」  CDも自分たちで売ったりしてるからね、と伝えると、そりゃすごいな、と嬉しそうだった。笑うと目尻のシワが深くなってさすがに歳をとったのだなという感じがした。 「お父さん、何歳だっけ?」 「もう五十だよ。この歳になると、もうさすがに自分の人生には諦めがつくな」 「諦めって」  聞きかけたときに、タイチが現れた。父の顔を見ないように意識しているらしく、パーカーのポケットに手を入れて下を向いたまま席についた。父の顔から瞬時に笑顔が抜ける。「久しぶりの四人だね」と母が言って四人が揃った。それじゃあ、と言って早速父はお茶碗の白ご飯を頬張る。いただきます、とわたしは手を合わせて箸を取る。誰もしゃべらない。おろし大根のソースがかかったチキンステーキに手を伸ばして、レタスと一緒に食べる。シャキシャキ、ザクザク。白ご飯も食べる。気まずい雰囲気のなかでも相変わらず母の料理は最高に美味しい。才能があると思う。 「多一、どうするんだ」  いきなり父が口を開く。ストレートだ。緊張が走る。兄はなにも言わない。何かを言おうとして箸をとめたまま、煮込んだトマトを飲み込んでじっとしている。 「キハルから聞いたぞ。お前な、勝手に大学を辞めて、一日中部屋に閉じこもって、生きていて楽しいか。いいか、おれが長年いるバングラデシュでもな、アジアの連中はどんどん世界に出てる。あいつらに怖いものは何もない。あいつらの目は、常に自分の知らない世界に向けられている」  父の口調は穏やかだった。昔ならもっと勢いよく罵倒するような人だったが、歳をとって丸くなったのか、なにかを学んだのか、諭すような言い方だった。ちなみに、父の出張先が南米ではなくバングラデシュであったということをわたしは初めて知った。物心がついたころから南米だと思い込んでいた。 「アジアの連中は日本人や欧米人より圧倒的に合理的だ。自分がいちばん楽に、楽しく、それでいて裕福に生きていくためには何をするべきか知っている。多一、こう言ってはなんだが、お前の目は死んでる。自分の知っている世界の中で、自分を気持ちよくしてくれるものだけを見てる目だ」  わたしは聞きながら、おそらく父は頭の中でその文章を何度も練り上げたのだろうなと思った。用意周到すぎて、嫌味っぽい印象を与えていることに父は気づいているのだろうか、と思った。それに、タイチは合理的かどうか、ということでいうと、わりと合理的な判断に基づいてニートをやっているような気がした。働かなくても食べていけることを知っているから、そうしているのだ。 「インターネットは解約だ。パソコンもスマホもあとで持ってこい。没収だ」  それまで黙って聞いてタイチが、うぐっと言ったかと思うとみるみる顔が赤くなり、ぽろぽろと涙を流し始めた。わからないが、没収はもちろん、目が死んでると言われたことが悔しかったのだと思う。わたしは父に似て目が二重で大きいが、兄は母に似て一重で、どうやらそれがコンプレックスらしかった。アイプチ用のテープをアマゾンで購入して夜な夜な装着して寝ていることをわたしは知っていた。タイチは顔を上げたまま、ぐうう、ぐうう、とうなり声をあげて泣いた。父は頭をかかえた。すると兄は、早速例のことを語り始めた。 「お、おれはあ、ぐ、ごども110番の家だからあ、この家をお、ごどもだぢをお、守らなきゃいげねえんだよお」  父親は、きょとんとした顔になった。わたしもきょとんとした顔になった。兄のなかのこども110番の家を守る者としての責任感が、ひしひしと伝わってきたからである。兄は本気だった。一点の迷いもなく本気だった。 「こども110番の家って、なんだ」そりゃそうだ。父が純粋な好奇心といった温度で聞いた。 「ご、ごども110番のいえ、だよう。び、ビーボくんの、ズデッガー、は、はってるだろお。ごどもが助けを求めてきた、うっ、どきのために、俺は家にいなきゃいげねえんだあ」  父はようやく状況を飲み込んだらしい。急に怒りを沸騰させた父は両手のひらで、バガーンとテーブルを叩いた。アホみたいに重厚感のあるうちのテーブルは微動だにせず、そのかわりなぜか父の眼鏡が斜め上に吹き飛んだ。ドリフのコントで釣り針に引っ掛けられたような不自然さで飛んだ。そして父は座っていた椅子を膝の裏で跳ね除けて玄関の方へ走って行った。父の椅子が倒れたので、わたしは椅子が床に落ちた眼鏡を下敷きにするのではないかと肝を冷やしたが、幸いそうはならなかった。床に並んだ眼鏡と椅子を見てわたしはなぜか投扇興を思い出していた。父はすぐさま戻ってきた。ワープしたのではないかという速度だった。右手にはピーポくんのこども110番のステッカーが握られていた。剥がしたのだ。タイチはそれを見てそれこそ子どもみたく「ワアーーー」と大きな声をあげて泣いた。ステッカーは兄の生きる意味そのものだった。父は「いままで、いちどでも、子どもが、駆け込んできた事が、あるかっ」と怒鳴りながら「、」のたびにステッカーを破ろうと両手に力をこめた。だが、ツルツルしたプラスチックのステッカーにありがちだが、どんなに力を込めても破れず、むしろ少しだけ伸びるのだった。観念した父は「ウガー」と言ってステッカーを丸めて床に叩きつけた。兄はよりいっそう声をあげて泣いた。顔をあげて、『ショーシャンクの空に』のラストシーンで雨に打たれるティム・ロビンスみたいなポーズで泣いた。わたしはもう見ていられなかった。せめて顔を伏せて泣いてくれと思った。辛すぎてわたしも泣いていた。自分でも気づかないうちに涙が流れていた。タイチは本当におかしくなってしまったのだなあということと、なぜ父はタイチのSOSに気がつかないのだろうということで泣いていた。すると、わたしの涙を見た父が「なんでお前も泣いてるんだよ」と言った。眼鏡を拾い上げて掛けてみたらわたしが泣いていたので、不意にそのようなことを口走ったらしかった。その声色に、わたしはほんのわずかながら、父の動揺を感じ取った。とっさにこれはチャンスだと思った。わたしが父の動揺を感じたのは、あとにもさきにもその一瞬だけだった。 「だってえ、タイチにいちゃんが、かわいそうだからあ」  わたしはあえて語尾をだらしなく伸ばしながら言った。かくいうわたしだって、いつ進路のことで怒られるかわからない。あまりだらしのない感じで泣くと父の怒りの矛先はわたしにも向かい始めるだろうと思われた。まずは父を困らせることが重要だった。 「タイチにいちゃんは、おとうさんみたいになりたかったんだよお、ずっと、おとうさんの背中を追いかけてたんだよう。でもおとうさんは家にいなかったんだよお」  わたしは確信犯的に、父の負い目である「家にいない」という点を突いた。ただ、この発言は同時に兄の傷も鋭くえぐったらしく、タイチは「アーー、アーーーーー」と悲壮さを増して泣き始めた。それがさらに父を動揺させ、父は完全に沈黙した。  母は酔っ払っているのもあるし、バカなのですでにこの戦場からは脱落していた。伏し目がちではあるがえげつないまでにシンプルな顔をしていた。  わたしはしばらく頭の中で、次に何を言うべきかぐるぐる考えていた。にいちゃんは本当はしっかりものだから大丈夫、とか、大学を出て普通に働くことがすべてではない、とか。でもそれらはきっと、父に向けた言葉ではなく、兄に対して、そしてわたし自身に対して言い聞かせたいだけの言葉だった。わたしは何を言うか考えるのをやめた。それに、これ以上何か言うと今度は父を追い詰めてすぎてしまう、と思った。そうこうしているうちに父はドタドタと足音をさせて自室に帰って行った。 「冷めちゃうから食べよ、ね」  母が気を取り直したように言った。この数分間魂をどこかに飛ばしていたくせに、気を取り直したようなふりをするな、と思った。 「インターネットは解約しないでね、お願い」  わたしは母に言った。母は曖昧にうんと言った。兄はこんどはちゃんとテーブルに顔を伏せ、声をあげずにしっとりと泣いていた。その時だった。 ぎゃあという鋭い悲鳴が聞こえた。驚いたわたしは椅子に座ったまま本当に数センチ飛び上がった。そしてそのまま椅子からすべり落ちた。腰がすべって、後頭部を座面にガツンと打ちつけると同時に床に尻もちをついて、テーブルの下にすべり込みながら上半身で椅子をギギギと後ろに押した。体から力が抜けてしまった。ようやく立ち上がるとタイチが凍ったような表情で固まっていた。 「誰の悲鳴?」と蚊の鳴くような声で兄が言った。 「おとうちゃんでしょ」とわたしが言う。「おとうちゃんだよね」と一応母に聞く。 「わかんない」母が答える。「常一さんの悲鳴、聞いたことないから」  恐る恐る、悲鳴が聞こえた父の書斎に向かう。さきほどの悲鳴の音量から、てっきり書斎のドアは開いているものだと思っていたが、ぴったりと閉まっていた。一応ノックして、扉を開くと、父が立っていた。わたしは書斎を見て、前日まで山と積まれていたダンボールがなくなっていてまず驚いた。知らない間に、母はひとりで大量の段ボールを片付けていたらしい。父はというと、ピンク色の大型本を開いて目を落としていたが、わたしが入ってきたのに気づいて顔を上げた。なおも興奮状態のわたしが「どうしたの」と聞くと、無言で書斎の奥を指差す。わたしは動揺してつい「人が死んでいるの」と聞いたが、そうではないらしく父は首を横に振って応えた。わたしは震える足で書斎の奥に進んだ。いちばん奥まで行き着いて、父ほどではないがわたしもさすがにゾッとした。そこにあったのは、いちめんのピンク色だった。何百冊という本のピンク色の背表紙が、延々と繰り返されていた。そこには、スピリチュアルな書体でこう書かれていた。『キハルのウキウキ・アニバーサリー』。著者はもちろん佐原キハル。これは佐原希晴のことで、わたしの母だった。  食卓では、今度は母が泣く番だった。泣いている母を見て、わたしは正直安心した。話を聞いてみると、そりゃ泣いて懺悔するのが正常だろうというような話だったからだ。母の目にも涙、それも、本物の。わたしはうれしかった。大げさではなく、ヒステリックでもなく、しっとりと泣く母がいとおしかった。  とにかく事態が大転換を迎えたので、わたしは急いでタイチの部屋をノックした。が、中から返事はなかった。黙って入っても怒りはしないだろうが、さすがに気を遣って引き返した。リビングで母が語ったことによると、事の次第はこういうことだった。  母は出版社から依頼があったアニバーサリープランナーとしての単著の原稿を、この一年間コツコツと書いていた、ように見せかけていた。その本の出版は取りやめになったが、実はそれ以前に、母はすでに自費出版で本を刷っていた。それが『キハルのウキウキ・アニバーサリー』だった。  なぜそんなことをしたのかというと、実のところ母は自分にはアニバーサリープランナーとしてのアイデアや、それを伝える文章力がないことを、すでに承知していた。だが、本を出すことが諦めきれず、編集者には「執筆は順調だ」と嘘をつき、その一方で自分のためだけに、それまでに完成していたほんのわずかな原稿で、こっそり本を作ってしまったのだ。そうして作られた本は、厚みを出すためだけに同じ二十六枚の原稿を一冊のうちに六回くりかえして百五十六ページになっていた。早い話が、母は気が狂っていたのだ。母は自分をベストセラー作家にするために、商社勤めの父がバングラデシュで稼いだお金を使い込んだ。その発行部数に、父は相当肝を冷やしたに違いない。十万部、と母は言った。「全ページカラー印刷、変形大判よ」と付け加えた。少しだけ誇らしげだった。それだけでなく、カバーにはラメや銀色の加工がいやらしいまでに施されていた。表紙の真ん中には、満面の笑みを浮かべた佐原キハルさんが写っていた。  こうして、十万冊の乱丁本は、印刷所にあこぎな保管料で積み上げられているだけでなく、ダンボールに詰め込まれてわが家にまで溢れかえった。家中のダンボールの中身は、実はパーティグッズではなくこの乱丁本だったのだ。いつからか母はそれまで持っていた大量のパーティグッズもすべて処分していた。アニバーサリープランナーとしての仕事や講演も、すでに何もやっていなかった。すべてはアニバーサリープランナーとしての自分の本を、大切に保管するために。  その夜、父は書斎に、兄は自室に閉じこもり、母はリビングでテレビを見ていた。わたしは、家にいるとまた新手の珍事が起こるのではないかと落ち着かないので、駅前のマクドナルドへ出かけた。半袖短パンで蒸し暑い夜を歩きながら、高校を卒業したら家を出よう、と決めた。アルバイトをしながら安い部屋を借りよう。でも、壁が薄すぎてもいけない。ベースの演奏ができる部屋じゃないとだめだ。  Mサイズのポテトとソフトクリームをカップで買って階段を上がると、誰かが二階のソファ席で、悪いケチャップの歌を歌ってた。 「♪誘拐した子が、すこしーずつー、母親に似て、ブスになっても~ わたしたちなら、捨てずにそだーててー、大人になるまで、そだーてましょ~」  聞き覚えのある声で、すぐにソナリだとわかった。ソナリは席に座ってスマホをいじっていた。「よっす」と声をかけると「あ、れんげだ」と返事を返してきた。 「いま、悪いケチャップの曲聴いてたんだよ」 わたしたち以外に、客はいなかった。 「れんげ、ねんなよ!」 それだけ言って、ソナリは一階に降りて行った。  ソナリは客ではなく、マクドナルドの店員で、寝ている客を起こすのが好きなのだった。深夜にマクドナルドに来る客なんてたいてい寝に来てるのに、ソナリは執拗に見回りに来て絶対に起こす。相手が顔なじみのはずの悪いケチャップでも容赦なく、五分に一度わざわざキッチンから二階に上がってきては叩き起こしてくるので、たまに本気で鬱陶しくなるけれど、それが定番のやりとりになっているから今更文句もない。ソナリは両親がミャンマー人の女の子で、肌の色が黒くて顔の彫りが深い。痩せているのに胸が大きくて、高校生ばなれしたエクゾチックさとセクシーさがある。ミャンマー料理屋をやっている両親と、お店の二階に三人で住んでいて、彼女自身は日本生まれ日本育ちだった。家を手伝いながらマクドナルドでも深夜バイトをしていた。もちろん本当は高校生が深夜シフトに入ったらダメなのだけれど、ソナリは二十五歳と必要以上に大きく年齢を詐称して働いていた。たしかに、二十歳だと言われると疑問が湧くかもしれないが、二十五歳だと言われると逆に納得してしまう、そんな雰囲気があった。普通に見れば全然高校生なのだが、本人曰く「目力のおかげで」全然バレていないらしい。 ちなみにソナリは日本語が母国語なのに加えて、英語とビルマ語と、あとミャンマーの謎の少数民族の言葉もしゃべれるらしい。しかも、学区でいちばん成績優秀な進学校に通っていた。  五分後、ソナリがもう一度二階に上がってきた。わたしは寝ていなかった。わたしはソナリのスマートホンを指差して「それでさ、ちょっと『燈屋サエ』って検索してみてよ」とお願いした。自分の携帯電話は充電中だった。なにかのゲームをしているところだったらしく「いいけどちょっと待って」と言われた。  わたしは、ソファ席に座ってゲームをしているソナリの横に行って、顔をじっと見た。ソナリの顔はとても綺麗だった。こうしてずっと見ていたい、と思った。わたしはとくに女が好きというわけではないが、ソナリになら抱かれてもいいと思っていたし、いや、そんな消極的な感情ではなく、確実に抱きたかった。裸を見たかった。スマホの画面に顔を落とすソナリの顔をじっと見る。 「なに」  ソナリが照れて笑う。「やめてよ、見ないでそんなに」と言いつつ、ゲームが佳境らしく画面から目が離せない様子で、口元をひくひくさせながらも顔はじっと動かない。わたしはますますソナリをじっと見る。ソナリはますますクククと笑いをこらえる。すると「あ、もう、死んだじゃんか」と笑いながらスマホを放り出して「れんげのせいだ」と言うので、わたしもおかしくなってははは、と声に出して笑った。ソナリは微笑みながらじっとわたしを見つめ返す。綺麗な顔すぎてわたしは照れて下を向いてしまう。 「なんだっけ、燈屋サエだっけ。モデルの人だよね」  検索してくれながらソナリが言った。「あ、もとグラビアアイドルか。ふうん。アパレル会社の社長と結婚して離婚してる。だいたい結婚して離婚してるよねえ、こういう人って」その他、雑感を交えながらいろいろ教えてくれて、どうやら燈屋サエに二人の子供がいることも分かった。ソナリの説明ではアニバーサリープランナーという言葉は出てこなかったので、彼女がアニバーサリプランナーになることはまだ世間一般には公表されていないと思われた。「顔写真ある?」と聞くと画像の一覧を見せてくれた。カメラの前でキメ顔をしている美人がずらりと並んでいる。どれもちゃんとカメラを見ていないようで、大きな目がはぐらかすように右や左を向いている。 「燈屋サエがどうかしたの。友達?」  ソナリがふざけて聞く。わたしは朝からの出来事を簡単に話す。ソナリはふむふむと聞く。母親のせいで、もしかしたらわが家は破産するかもしれないし、そうしたらわたしも大学に行かずに働かなければならないかもしれない。バンドもやれなくなるかもしれない。貧乏こわい。ソナリはずっと黙って聞いていたけれど、 「バンドは続けてほしいねえ。聴けなくなるの嫌だよ」 と言った。悪いケチャップはよくマクドナルドの二階でミーティングをしていて、ソナリはたまにライブにも来てくれるすばらしいファンだった。ソナリは最後に「寝んなよ。起こすからな」と言って、キッチンに戻っていった。  しばらくして、スマートホンに着信がきた。末尾に見覚えのある番号だったので「もしもし」と出ると梢だった。もう日付が変わっていたが、どうしても直接話したいことがあるというので、こっちは駅前のマクドナルドにいると伝えた。今すぐ行く、と返事があった。  梢が来るまで、べちょべちょに溶けたアイスクリームを飲んだり、それをポテトにつけて食べたりしながら、母親のことを考えた。なんであの人は、自分がアニバーサリープランナーとして世間に知られることにあんなに必死になるのだろう。わたしは母に自分の誕生日を大仰に祝われるのが心底嫌だったが、彼女がアニバーサリープランナーになって、他人の家の子どもを祝ったりしているのを雑誌やインターネットで見るのはもっと嫌だった。たぶんそれは嫉妬であって、あの頃はまだ心のなかでは母親のことを好きだったんだろうけど、そのうち嫉妬も忘れてしまって、普通に母のことが嫌いになっていた。わたしは母が乱丁本を十万冊刷ったのを端から見て「気が狂っているなあ」と思っていたが、自身がその気狂いの娘だし、彼女をそうせざるを得ない精神状況に追い込んだ張本人でもあるらしかった。わたしは家族で、ただひとりの娘なのだった。  そうこう考えているうち梢が階段を上がってくる足音が聞こえた。 「ソナリいるじゃん。話した?」  彼女の第一声はそれだった 「ああ、うん。さっきまでここにいたよ」 「そっか。あ、水野にも連絡をしたんだけど、来れないって」  さっきまでソナリが座っていた席に、梢が座る。 「あら。残念、たまには水野ともゆっくり話したいなあ。水野は結構遠いとこに住んでるよね」 「そうだね」 「遠矢は?」 「遠矢には連絡してないよ。遠矢は徹夜したことないし、夜は十時に寝るから無駄だと思って」 「え、まじで。遠矢って徹夜したことないの。一度も?」 「一度も。日付が変わる前に絶対に寝るらしい。起きてて、日付を跨いだことないらしいよ」 「それは宗教上の理由とかで?」 「いや、なんか、誰かと約束したらしい。死ぬまで徹夜しないって」 「親かな」 「年上の知り合いって言ってたけど」 「変な人と変な約束するね遠矢は。やっぱ肌とか気にしてるのかな」 「遠矢が言ってたのはね、夜と朝が繋がっていることを信じてないらしい」 「どういうこと」 「どういうことって思うでしょ」 「信じるも信じないも、繋がってるでしょ」 「わたしもそう言ったのよ。そしたら本気で嫌な顔するんだもん。もうやめようよこの話、っていうさ、マジな感じで。宗教の勧誘とか断るときの感じで」 「変わってるよなあ」 「遠矢は変わってるよ」  遠矢の話をすると、たいてい「変わってる」というところに落ち着く。 「動物と話せるの知ってる?」わたしが訊く。 「ああ、それは知ってる。というか、見たことあるよ、話してるとこ」 「ほんと? あたしもある。話してるよね、あれ」 「話してるね、あれは。あと、あれ知ってる? 妹が入れ替わる話」  妹が入れ替わる話? 「知らない」 「ふふふ。あの話は本人から聞いた方がいいよ」 「なに、気になる。聞かせてよ」 「遠矢ってさ、妹がいるじゃない」 「ああ、いるね」 たしか、かなり歳が離れている妹だ。 「あの妹がね、たまに変わるらしいの」 「どういうこと」 「妹がね、一年に一回くらい新しい妹に入れ替わるらしい」 「いやいや、それはさすがに」 「遠矢、妹っていうものは一定のスパンで新しくなるものだと思ってたらしいよ」 「ありえん」  そんなわけのわからない話から、急に本題に向かった。 「悪いケチャップ、続けよう」  梢が言った。 「文化祭から時間がかかったけど、親を説得できた。高校卒業したらバンド一本でいこう」  わたしは、うん、そうしよう、と言った。梢が手を出して、わたしもそれを強く握って、握手をした。わたしにも生きる道は音楽しかない。勉強もできないし、ソナリも悪いケチャップのファンだし。自主製作のアルバムをもっと作って、もっと売ってがんばろう。「水野と遠矢はなんていうかな」と聞くと、梢は「あの二人が大学に行くわけない」と言い切った。わたしも百パーセントそう思う、と言った。  それからわたしたちはペチャクチャしゃべって、ソナリに起こされてキレたりしたのち、朝の五時ごろ分かれてお互いの家に帰った。もうすでに空は明るくなりはじめていた。玄関から帰ると朝帰りがバレるかもしれないので、庭を回って自分の部屋の窓を開けた。夜のあいだ密室になっていたわたしの部屋から熱気が流れ出て、かわりに朝の涼しい風がカーテンを巻き上げた。わたしはコンビニで買ったミニサイズのとろろそばをささっと食べて少しだけ寝た。  朝の八時、わたしはベッドから起き上がって、トイレに行って顔を洗って服を着替えた。父の飛行機の時間は昼の十二時だと聞いていた。  わたしがダイニングに出ると、父と母はすでに着席して、トーストを食べようとしていた。スクランブルエッグとウインナー、カットされたキウイとリンゴ、庭で採れたクレソンとレタスとトマトの生サラダ、パンにつけるピーナツペーストやブルーベリージャムやクリームチーズが並んでいた。父はだらしのないスウェットを着ていて、髪はボサボサで、でも姿勢だけはきちんと伸ばしてトーストにかぶりついていた。兄がいないからなのか、やはり人の善さそうな顔をしている、というか、単純に老けたのかもしれなかった。わたしに気づいた母が立ち上がって「パンでいい?」と聞いた。わたしは自分で焼く、と伝えて台所に回った。  トースターにパンを二枚並べて、つまみを回してから、わたしはシンク越しに父の方を向いて言った。 「わたし、高校出たらバンド一本でいくから」  父は新聞を手に取ろうとして、やめて、コーヒーを飲んでひと呼吸おいて、 「好きにしなさい」  と言った。 「わたしには大学行けっていわないんだね」  朝のさわやかな空気に任せて、すこし挑発気味に聞いてみた。 「れんげは、俺みたいになりたいと思ったことないだろ、一度も」  父の落ち着きに、わたしは気が抜けた。たしかにそうだ。「うん、まあ」たまに、海外で働いてて英語がペラペラなのはかっこいいな、と思うけど。 「それに、俺がお前の選んだ道に反対して、家から出て行けって言っても、お前は男を作って転がり込んで生きていくよ。それだったら家にいて、音楽に集中したほうがいい」 「お父さんは大学に行かない人生を考えたことある? なんで今の仕事をしてるの」 父は新聞を見つめたまま、しばらく黙ってから静かに答えはじめた。 「いろんな人生を考えたよ。俺は自分の人生を、仕事に生きたとは思ってないな。好きなことやらせてもらってる、会社にも、そしてなによりお前たち家族にも。ごめんな。家にいないことばかりで」 「いや、いいよ、そういうつもりで聞いたんじゃないから」 「今度ゆっくり話そう。そろそろ酒飲もう。あと多一のこともよろしく頼む」 「頼まれても困るよ」わたしは笑う。「お兄ちゃんは……」  父は急に厳しい顔になって、まくし立てた。 「ああいう奴は大学に行かなきゃいけない。女を作ってヒモになって生きていけるようなたくましさがあれば、とっくに追い出してる。あいつを家から追い出したら死ぬか犯罪者になるところしか想像できん。だからインターネットを解約して、勉強に精を出して復学してもらうしかない」  無茶なことを言うなあと思うが、父は父なりに考えているのかもしれなかった。  トースターがチンと鳴って、わたしは重いお皿を棚から出してパンを二枚重ねた。  その時、廊下に続く扉からドアノブが回る音がした。三人がほぼ同時に顔を上げる。見たことのない、スーツ姿の男性が立っている。薄いグレーの上下を着て、さわやかな短髪をうしろに流して固めている。シェービングジェルのメンソールの香りが、こちらまで漂ってきた。  母が一瞬ヒャッと悲鳴をあげた。が、わたしはその男の正体に気がついた。兄だった。 「にいちゃん、どうしたの」  父が眉間にしわを寄せて、なんとも哀れんだ表情で兄を見ている。 「おはよう。行ってきます」 「いや、どこへ」間髪を容れずわたしが聞く。 「仕事だよ」兄が笑顔で答える。 「仕事ないでしょ」 「いや、実は仕事あるんだよ。だから行かなくちゃ」  兄はこちらに歩いてきてウサギリンゴをひとつ手に取った。上半身を小さくのけぞらせて明らかな嫌悪感を示している母に、兄は「朝ごはん食べられなくてごめんね」と謝った。父には一切、目をくれなかった。まるで父の存在には気づいていません、父はいまも南米にいるのでしょう、というような感じだった。そして「行ってきます」と言って、玄関の方へ向かった。わたしが「ちょっと」と声をかけると、立ち止まった。そのまま動かなかった。  兄は五秒間くらい安っぽい注目を背中で浴びたまま静止して、スローモーションで振り返りながら「男は家族を守らなきゃならないんだ」と言った。動きと反対に早口すぎて聞き取れなかったので黙っていると、察したらしく「男は、家族を守ってこそ、一人前の男になるんだ」とゆっくり繰り返した。別にそんなことないのでは、と思ったが、何を言ったらいいのかわからなくて、黙っておいた。 「おれがこれから挑む仕事は、生やさしいもんじゃない。なにせ、自分の人生をどう生きるか、真正面から己に向き合って、歩き始めるんだ。学校や会社みたく、用意されている机に向かうんじゃない」  父は深いため息をついて両手で顔を覆っていた。この格好は父の癖なのだな、と思った。母は相変わらずエグいくらいシンプルな顔をしてスクランブルエッグをトーストの上に乗せていた。わたしは、やっぱ仕事決まってないんじゃん、と思ったし、じゃあなんでスーツを着てるのよ、と思っていた。兄はいなくなった。  その日、わたしは制服を着て、父を成田空港まで見送った。見送った、というか、会社の車が家の前まで父を迎えに来たので、後部座席に一緒に乗って、空港までついていった。別にわたしが学校をサボりたかったわけではなく、父が誘ってきたのだ。わたしが部屋で制服に着替えていると扉がノックされて、「ちょっと待って」と答えると早速扉越しに「れんげ。俺は今日、無性にお前と話がしたい。空港まで一緒に来てくれ」と言った。「学校があるんだけど」最近休みがちなのだが、一応真面目なふりをして言ってみると「そうか。それって休めないのか?」と言うので「まあ、休めないこともない」と返した。  空港まで一時間半くらいのあいだ、父といろいろな話をした。なぜ父がこんなに急速にわたしとの距離を縮めてきたのか疑問だったが、おそらく、前日から立て続けに兄と母が人として信用の置けない状態を露呈しまくったので、わたしの気を案じてくれると同時に、父もわたししか信頼できる人間がいなくなったのだと思う。父はまるで人が変わったように、わたしと積極的に話をした。 「お母さんの借金、だいじょうぶなの」  わたしは聞いた。運転手が聞き耳を立てていないかと気にして小声で聞いたのだが、父はハハハと笑って「借金っていうか、払ってないお金があったんだけどな」と言った。バックミラー越しに映る運転手の表情は「車内の会話の記憶は、のちほど自動で消去されます」というような顔をしていた。 「お金のことは、大したことない。まあ、俺はもう少し長く働かなきゃいけなくなったな。ほんとうなら、そろそろ早期退職しようと思ってたんだが」  悔しそうな様子を見せずに言うので、「怒ってないの」と聞くと、 「まあ、俺のせいだからさ。キハルに前の仕事を辞めさせたのは俺だし、お袋の介護も全部任せっぱなしだったから」  と今後はしゅんとした様子で答えた。こんなに表情が豊かな父を見るのは初めてのことだった。 「あいつが目立ちたがり屋なのも知ってたし、社会的に成功したいっていう気持ちが強いのも知ってた。それを知ってて、家に閉じ込めたのは俺だから。アニバーサリープランナーっていう、キハルらしい仕事を見つけてくれて、安心してたんだけどさ。やっぱり難しいんだろうな、そういう仕事もさ」会社勤めの俺にはわからんからな、とつぶやいた。 「そういえばあの本、どうするの」 「全部捨てるよ。キハルも納得してくれた。ひとりにしとくとダメだけど、ちゃんと向き合って話すとしゃんとするんだよ、キハルは」 「わたし、一人暮らししたいんだけど」 「そうだよな。あんな家、いたくないよな」父は寂しそうに言った。 「いたくないってわけじゃないけど」 「できればさ、家にいてやってほしいな。かあちゃんはさ、プライド高いし、意地っ張りだけど、本当は寂しがりやだし、真面目なんだよ、知ってると思うけど。あと四、五年働いたら、俺も仕事辞めて、必ず戻ってくるからさ。それまで家にいて、かあちゃんのこと見守っててやってほしいな」 「またそうやって、それって今度はわたしを家に閉じ込めることになるんじゃないの」  わたしはあえて、意地悪をして言ってみた。父ははっと気づいたような顔になって「まあな」と言った。 「いいよ」  わたしは天使になった気分で答えた。 「そのかわり、わたしがベーシストで生きていけるようになるまでは、面倒みてよ。三十歳くらいになるかもしれないけど」 「家にいるのは構わない。そのかわり三十になったら、金持ちと結婚するか、自分で食っていけるようになれよ。そうだ、お前に言っておきたいことがあったんだ」  父はわたしの顔を覗き込んでさも重大そうに言った。 「金さえあれば、ほかにどんな不幸が起きても、人生は喜劇だ。けど、金がなかったら愛も友情も、夢も希望も才能も、ぜんぶ悲劇にしか行き着かない。だからお前も、金を稼げ」  父はまるで遺言のように、もう二度と会えないかのように熱心な顔で訓示を垂れた。 「今回のキハルのことも、お金で解決できるから喜劇になった。これがもし、借金取りに追われて一家離散になってみろ、正真正銘の悲劇だぞ。お前の三十以降の人生が喜劇になるか悲劇になるかは、俺にはなんともできない。がんばれ。で、ベーシストってのは儲かるのか?」 「わかんない」 「ポール・マッカートニーはベース以外もいろいろやるからな」  うーん、と顎に手を置く父。父は本当にビートルズしか知らない。 「あのな、お前が高校出たらバンドやりたいっていうのを聞いて、俺は嬉しかったよ。俺は音楽が、特にビートルズが大好きだからな。音楽や芸術みたいに、裕福じゃないとできない、それでいて人類にとって最も大切な仕事に、おまえが就いてくれる。一生懸命働いてきた甲斐があったってことだ。ガンバレ」  父は、お金に困ったら連絡しなさい、と言った。そして別れ際に、ビートルズみたいな音楽を作りなさいと言った。それには曖昧な笑顔で応えておいた。  乗客がわたしひとりになっても、相変わらずひとことも喋る気配のない運転手の運転する車で、わたしは高校の門の前に乗り付けた。午後のひとコマだけ授業を受けて、横着して半日ぶんの出席をカウントしてもらって、すぐにベースを取りにいちど家に戻った。あとで軽音部の部室に戻って、授業を終えたメンバーと合流するためだった  午後三時ごろになっていた。家の前の道まで戻ってくると、五十人か百人か、見当もつかない数の人だかりができていた。我が家の近所があんなに賑やかなのは、生まれて初めてだった。さらに、人だかりの向こうにパトカーが四台停まっているのが見えた。もともと車一台がぎりぎり通れるくらいの狭い道なのだが、人だかりとパトカーのせいで、もう完全に通行止めになっていた。なにがあったんだろう、いやだなあと思いながら近づくと、テレビカメラやリポーターや区役所のジャケットを着たおじさんやらで、わが家の門にすら近づけそうもない。お隣の新島さんの旦那さんがいたので「すみません、なにがあったんですか」と尋ねると「あっ、れんちゃんやないか、よかったあ。心配しよったで」と言った。 「何かあったんですか」 「ああ、男の子が殺されたんよ。れんちゃんちの、玄関で、って噂やけど、みんな家におらんかったん?」 「あ、はい、たぶんいなかったと思います」 「そうか、よかったなあ。とりあえずオレ、嫁さんに伝えてくるわ。みんな心配しよったんやで、佐原さんちのみんなが無事かどうか。みんな無事なんよな?」 「たぶん」 「あ、すまんな。すまんすまん。あ、さっき警察の人が『佐原さんいらっしゃいませんか』って聞きよったから、言って話してきな」  うちの玄関で人が殺された、なんてことを言われても、全然実感がない。兄は男の子って年齢じゃないし、男の子の知り合いも親戚も、ひとりも思い浮かばなかった。人混みを押しのけて、強面の警官にこの家の住人ですと伝えると、急にニコニコ顔になって「こちらへ」と言われた。誘導された先がわが家の庭で、他人に案内されるのがなんだか変な感じがした。促されるまま折りたたみ椅子に座る。先ほどの警官に連れられて、Tシャツ姿のラフな感じの男性が現れて「どうも」と言った。Tシャツは警察手帳をさっと見せてさっと仕舞った。せっかくなのでもっとちゃんと見せてほしいなと思った矢先、すぐに話し始めた。 「まずは安心してください。もう犯人は捕まりました。状況はどなたからか聞かれましたか?」  人の良さそうな話し方だ。 「いえ、何も」 「そうでしたか、すみません。では少しお話しさせていただいてもいいでしょうか」 「どうぞ」 「ありがとうございます。今日のお昼すぎ、小学一年生の男児がおたくの前の道で男に声をかけられました。男の動機はわかっていませんが、男の子は悲鳴をあげて走って逃げて、おたくの家に助けを求めました。えー、あそこの大きな門が開いていたので、そのまま敷地内に入り、玄関のチャイムを鳴らしたようです。鍵のかかった玄関のドアをガチャガチャと開けようとしていたところに、さきほどの男が後ろから襲いかかり、包丁で複数回この男児を刺しました。男児は出血性ショックで死亡、男は逃亡を図りましたが、男が男児に声をかけたところをお隣の新島さんが見ておりまして、門から出てきた男を軽トラックで跳ねて、捉えました」  そんなところで、日暮れまでには状況をまとめて警察は引き上げる予定だが、そのあと特殊清掃もあるし、マスコミもいるので今晩はホテルを取られることをお勧めします、とのことだった。いやいや、自分で取るのかよ、と思ったが仕方ない。Tシャツに親に電話をさせてくださいと言われたので、母親に電話をかけた。まさか自宅の敷地内で人が殺されるとは思っていなかった。でもわたしは実際の現場を見ていなかったので、たいした動揺もなかった。わたしはとりあえず部活の練習があるので楽器を取って高校に行きたいのですがというと、Tシャツはすこし驚いた様子で「すみませんが玄関はまだ封鎖しています」と答えた。わたしはいつも通り、庭から自室に回って窓を開けて、中に入ってベースを取ってきた。Tシャツはわたしを見てあけっぴろげに笑いながら、「あ、すみません、一点だけ」とわたしに尋ねた。 「これは捜査ではなくて、警部としてのわたしの好奇心なんですけど、なんで男の子はこの家に駆け込んだんでしょう。少し離れてるんですよ、男性が声をかけた地点と、おたくの門は。わかりますか」  わたしが黙っているのでTシャツは「わかんないですよね、すみません」と言って、あ、とパトカーに走り出すとすぐに戻ってきて冷えたスポーツドリンクを手渡した。 「びっくりすると、喉渇いてるの忘れちゃうんで、ちゃんと水分補給してくださいね。いってらっしゃい」  わたしは門を出るときに、110番のステッカーがあった場所をちらりと見た。昨日までそこにあったステッカーは剥がされて、その四角の部分だけわずかに門の木の色が明るかった。Tシャツはわたしと目があってもう一度笑顔で「いってらっしゃい」と手をあげた。愛想のいいTシャツに行ってきますと応えて、わたしは高校へ向かった。  念のため父に電話をかけた。いまごろは飛行機に乗っているとわかってはいたけれど、着信だけでも残しておいたほうがいいと思った。留守番電話に、ものすごく大変なことが起きたので、折り返しをお願いします、と入れた。  一年生から三年生まで、全クラスの教室が並んでいる本校舎は、わたしたちが入学する前年に建てられたばかりで、廊下も黒板もピカピカだった。いっぽう、わたしたち軽音部の部室は、第二体育館とおそらく同時期に建てられた旧校舎にあった。本校舎の三階から連絡通路を進むと暗い廊下が左右に分かれていて、左にわたしたちの部室、右に行くと授業に使う音楽室がある。突き当たり、つまり部室と音楽室のあいだには、事前に申請すれば誰でも自由に借りられる楽器演奏用の個室が三つあって、わたしは梢に呼び出されて、いちばん部室から遠い個室に入った。 「ごめん、やっぱりわたし、大学に行くことにする」  梢は申し訳なさそうに、苦しそうに言葉をひねり出した。驚いたわたしは、昨日の夜、握手をして約束したことを、ひとりで思い出すことしかできなかった。 「でも、悪いケチャップは続けたい。わがままだけど、大学もバンドも諦めたくない。わたし、大学のサークルとかには入るつもりないから」  わたしは慌てて反論した。 「でも、大学いっちゃったら、練習の時間取れないかもだよね。毎日練習して、毎日人前でやらなきゃ、プロにはなれないよ。それにわたしたち、せっかく音楽に専念できる環境があるじゃん、わたしも、梢も。生きるために働かなきゃいけない環境でもないし、もったいないよ。音楽に専念できる環境なんて、なかなかないんだから」  梢の家も貧乏ではないことを知っていたので、わたしは偉そうに言った。 「佐原の言いたいこともわかるけど、もっとポジティブな理由で、大学に行きたいんだよ、わたしは。大学出てプロのミュージシャンになる人も、たくさんいるし」 「覚悟の問題なんだと思うよ、これは」  今度は梢が顔をしかめて、反論をする番だった。 「覚悟って、危機感ないまま音楽やっていこうって思ってるのは佐原だと思うけど。途中できっかけがあれば、そのとき大学を続けるかどうかも考えるよ。あと覚悟だけじゃだめでしょ、戦略がないと。わたしは曲を作るのが好きだし、詞を書くのもわたしでしょ。もう題材がさ、枯渇しそうだから、正直。本当は大学に行って会社員になって、一般的な生活をしたいよ。そのほうが書けることは増えるから。特別なことじゃないんだよ、なにか作るのはさ。もっと本を読んでもっと勉強したいし、音楽聴く側の人たちと、なるべく同じような人生経験を積みたい。それが真摯な在り方だと思うから。で、そう考えるとやっぱり大学行きたい。佐原も水野も、演奏するのが好きなのはわかるんだけど」 「少しは曲作りを手伝え、ってこと?」  わたしだって曲作りたいって思ってるんだよ、と出かかってやめる。 「いや、手伝えってんじゃないけど、というかむしろわたしに全面的に付き合ってくれて感謝してるんだけど。わたしがやるべきことと、佐原や水野がやるべきことは違うんじゃないか、っていうこと。そしていろんな具材を持ち寄って、悪いケチャップっていう闇鍋に混ぜたほうが、絶対面白いものができると思う」 「そのバランスがね、うまくいくのかなって思う。だって、梢ひとりだけ大学生っていうと、やっぱりスケジュールとか、合わないかもしれないし」  わたしがそう言うと、梢は急に申し訳なさそうな顔になった。 「あと、遠矢も大学に行くってさ」 「嘘でしょ」 「ほんと。わたしもさっき聞いたんだけど。校長先生に説得されたらしいよ」  わたしは練習ブースを飛び出た。  旧校舎の三階から新校舎の一階にある校長室までそれなりに距離があるので、わたしは飛び出た勢いを維持できず、校長室の扉の前に着く頃には、丁寧にノックをするテンションになっていた。中から「はい」という声が返ってきたので「失礼します」と扉を開くと、校長は「府川靖彦 校長」と書かれたネームプレートを胸のあたりに持ってコメンテーターの入場みたいな格好でデスクとソファのあいだのスペースに挟まって立っていた。 「あの、校長先生は、どうして校長先生になろうと思ったんですか」  いきなり聞いてみる。本当は、遠矢に大学に行くように説得しやがってこの野郎、と言いたいところだったが、つい遠回りをして聞いてしまう。唐突な質問にもかかわらず、校長先生は落ち着いた様子でプレートを机の上にまっすぐ置いて、こちらを振り返って答えた。  「私は地方から出てきて役者を目指していましたが、二十五のときにきっぱり諦めました。自分には才能がない、とようやく気付いたんです。あの決断は、私の人生のなかでもいちばんの英断です」 「本当に英断だと思っていますか。そう思い込もうとしていませんか」  とっさに出てきた言葉に、校長先生は笑った。「厳しいですね、佐原さん」わたしの名前を覚えてくれていたようだ。 「校長、というか、高校の先生になったのは、大学でなんとなく教員免許を取っていたからです」  わたしは、この人も目の前のことを一生懸命頑張るタイプの、頑張る対象はなんでもいいタイプの人間なのかもしれない、と思った。 「私は、あなたたちの才能を本物だと思っています。文化祭のステージ、見ましたよ。嬉しかったです。バンドも是非続けてください」 「それなら、どうして、遠矢に大学に行くことを勧めたんですか」 「それは遠矢さんが、担任の伊藤先生と話して決めたことです。わたしはそのあと少し立ち話をしただけで。そもそも、彼女自身が決めたことですから」  口元を緩めずに校長先生が言った。 「先生は、わたしたちがバンドを続けないほうがいいと思ってるんじゃないですか」 「そんなこと、思っているわけがありません。まず、教師の仕事は、生徒ひとりひとりの個性を見極めてその人にあった道を案内することではありません。それは生徒本人の仕事です。それをわかってください」  校長はソファに軽く腰掛けて、前のめりになって申し訳なさそうに、しかし堂々と言った。 「私たちの仕事は、君たちに教科書の勉強を教えて、大学の入口まで導くことです。教師の立場でありながら、それができないのは責任の放棄だと私は考えています」  どうぞ、佐原さんも座ってください、と言われて、わたしはテーブルを挟んだ反対側に座った。もふり、とおしりが大きく沈んで、目の前の校長先生がほぼ空気椅子的な感じで努力して浅く座っていることを知った。わたしもあわてて、座面を前にずらして身を乗り出した。 「佐原さんにはわかってもらえると思いますが、教師の案内に頼るか頼らないかは、結局は生徒自身が決めることです。どう生きるべきか、どういう夢や志を持つべきなのか、そもそもそんなもの持つ必要があるのか? そういうことは佐原さんが考えてください」  わたしは黙った。校長先生も黙った。こちらが話したいことを整理するために、時間をくれていたようだったけれど、しばらく沈黙が続いたので、校長先生が口を開いた。 「山田さんも遠矢さんも、大学に入っても音楽を続けるでしょう。彼女たちだったら、きっといい仲間に恵まれます」  あなたはそれが悔しいんでしょう、と言われているような気がした。 「私は佐原さんがとても賢いことを知っています。前は静かな方だと思っていましたが、ずいぶん変わりましたね。あなたの目を見て話していればわかります。だから、率直な思いを伝えます」  校長先生の表情はすごく真面目だった。こんな風に恥ずかしげもなく、正面からわたしに向き合ってくれる大人がいるというのは驚きだ。 「わたしは佐原さんにも、山田さんや遠矢さんと同じく大学に行くことを勧めます。なぜなら、学歴は自信になるからです。学歴がないと、いくつになっても自分がバカじゃないことの証拠を一生懸命かきあつめて、他人に発表しなきゃいけなくなります。自分の知性に自信が得られないまま生きるのはとても不安ですよ。誰でも、自分の賢さを認められずに生きることは、つらいことです」  なんとなくわかるような、わからないような感じだったので、「でも、自分はバカだと開き直って生きることのできる人もいます」とわたしは言った。言いながら、けれど、わたしはどうだろう、と思った。わたしはわたしのことを、やっぱり賢いと思っている。疑いようもない、この感覚。だってわたしはわたしの賢さを通してすべての判断をしているわけだ。自分が賢いか賢くないかの判断ができるためにも、賢くなきゃならない。  校長先生は、 「佐原さんだって、自分の賢さを周囲の人たちに認めてほしいはずです。受験は、自分の賢さを自分にも他人にも証明できる絶好の機会ですよ」  と続けた。わたしは、なるほどな、と思ったけれど、突然、自分の部屋で机に向かったときのあの気持ちの重さがよみがえってきた。あの無力さ、あのふがいなさ。目の前に取り組むべきプリントが山となって積み重なっているのに、積み上がりすぎてどこからも引き抜けなくなっていて、途方に暮れているあの感覚ああ、一体わたしはどうすればいいんだ、と感極まって気がついたら泣いていた。まさか自分が、勉強ができなさすぎて泣くことになるとは思わなかった。しかも校長室で。勉強からさんざんぱら逃げてきたのは自分なのに、迷惑な話だ。ああ、なんじゃこりゃと思っているうちにどんどん涙が溢れてくる。そうか、わたしは自分がバカなのを見て見ぬ振りして生きてきたのだ。自分がバカなことに気づかないために、机から離れてひたすらベースを弾き続けたのだ。校長先生も動揺したようで「大丈夫ですか」と声をかけるのが精一杯らしかった。それでも「しばらくここにいてくださって大丈夫です。私もつい熱くなってしまいました、すみませんでした」と謝って、廊下に出て行ってくれた。わたしは三十分くらい泣いて、もう三十分くらいかけて涙を拭いて廊下に出ると校長先生が立っていた。多分ずっと立っていたんだろう。わたしは校長室から校長を追い出して、何をしているのだろう、と思った。落ち着きましたか、と聞かれたので、ありがとうございました、と頭を下げて、感謝の気持ちを伝えるべくなんとか笑った。  結局その日、兄にも父にも連絡がつかず、母は都内にある自分の実家に帰ることになって、わたしは水野の家に泊めてもらった。母はなにか辛いことがあると、すぐに実家に帰るのだ。わたしはあんな女になりたくないと思った。旦那の稼いだ金で好き勝手なことをやって、いざというときには責任から逃げて自分の実家に帰る女。  水野は母子家庭で、水野のお母さんは歌舞伎町で働いていた。朝になったら西武新宿線の始発に乗って、アパートに帰ってくるのだった。  夜の十一時ごろ、水野がお風呂に入ったので、わたしは水野の家にあった食パンを焼かずにふにゃふにゃとかじりながら、死んだおばあちゃんのことを思い出していた。男の子の死について考えようとしても、どんな男の子か知らないので考えようがなくて、わたしにとって考えることのできる唯一の死は一緒に住んでいたおばあちゃんの死だった。  わたしが中学一年生のときに、おばあちゃんは死んだ。おばあちゃんはもう八十を超えていたし、余命宣告も受け入れてわりと死ぬ準備ができていたので比較的穏やかな死だったと思う。死ぬ直前のおばあちゃんはずっと、「死ぬのは怖くない」と言っていた。それはもう、自分に言い聞かせるように言っていた。死んだらおじいちゃんのところへ行けるから、死ぬのは怖くないんだ、と壊れたラジオのように一日中繰り返していた。わたしはずっとうんうん、そうだねえと相槌を打っていた。わたしも壊れたラジオだった。  おばあちゃんは昔から、死後の世界とか死者の魂とか、そういうものを信じていない人だった。人間死んだら終わり、みたいな開き直りと豪快さがあって好きだった。おじいちゃんが大動脈瘤で死んだときですらそうだった。それが、いざ自分が死ぬ番になると、死後の世界に期待を膨らませはじめて、わたしはなんとも言えない気持ちになった。もちろん「死後の世界なんてないんじゃなかった?」などと責める気持ちには全くならなかった。まあ、そうなるよなあという感じがした。  おばあちゃんは生まれが九州で、一族のお墓もそっちにあった。十代で東京のおじいちゃんの家に嫁いでからは、鹿児島の実家にも一、二度帰ったっきりで、お墓参りには全く行っていなかった。そんなおばあちゃんが、余命宣告をされて、車椅子でなければ生活できなくなってから、突然「墓参りに行きたい」と言い出した。どこにあるのか、そもそもあるのかないのかすらわからないお墓。私は最初、いまさら墓参りかと、ちょっと呆れた。それでも、お墓参りに行くことで安らかな気持ちで死んでいけるなら、絶対にお墓参りに連れて行ってあげなきゃと思った。わたしだって、お墓が死んだ人の魂のためにあるなんて思ってはいない。  母親はおばあちゃんと折り合いが悪かったし、父親はじぶんの母の死期が近づいても相変わらず海外から戻って来る気配がなかったので、わたしがおばあちゃんのアテンドをすることにした。お墓の場所さえも、本人はもちろん家族の誰も知らなかったので、引き出しから数年分の年賀状を引っ張り出してきて、おばあちゃんと血縁関係にあると思われる人たちに片っ端から電話したり手紙を書いたりして尋ねた。それから医者にも相談して、要介護者専門の旅行代理店に相談をして、何度も打ち合わせしてプランを組んでもらった。実際にお墓があることが判明した鹿児島の知覧まで、事前に下見にも行った。まあ、そんなわたしの苦労はどうでもいい。そんなこんなでおばあちゃんは、八十歳を過ぎてから、死後の世界を信じるようになった。立派に信条を変えた。それは本当に、偉い。もし、死ぬ直前まで自分の信条を変えず、死後の世界などない、人間死んだら終わり、と思って生きていたら、どうなっていただろう。きっと、死の直前には恐怖のあまり頭がおかしくなったのではないかと思う。おばあちゃんは最期の最期まで、生きる知恵を振り絞って生きた。かっこいいと思う。  お風呂から水野が出てくる。バスタオルを一枚だけ羽織っている。 「あのさ、大学行かないの、水野とわたしだけかもね」  わたしはテレビを見ながら水野に声をかける。 「うん。ガンバロー」  水野はあからさまに適当に返事をする。水野はドラム以外のことには全て適当だ。  テレビでは毒舌タレントが茨城県の悪口を言って、それに対して茨城出身のタレントが泣きべそで反論して盛り上がっている。テロップがびよーんと出てくるたびに、わたしも水野もゲラゲラ笑う。ふだん自分の家ではテレビを見たいなんて思わないが、友達の家で一緒に見るとやっぱりテレビはめちゃくちゃ楽しい。ふと、わたしは昼間の、わが家での殺人事件のことを誰にも報告していないことに気づいた。水野に言おうかと思ったが、やめた。信じてもらえないような気がした。 「水野はどう思うの、遠矢と梢が大学いっちゃうこと」 「え、いいんじゃない? バンドは続けるんでしょ」 「そうだけどさ、なんか寂しくない」  わたしが言うと、ちらりとこちらを見て「別に」と水野は笑った。 「ヤマダさんなんかはもっと勉強したいんじゃない、曲も作らなきゃいけないし。わたしはドラム叩ければいい。他のバンドでもサポート、積極的にやりたいと思ってるし」  そういうと立ち上がって、つぎはぎが目立つソファの背もたれのうしろから、大きな箱を取り出した。よく見ると綺麗な六角形で、それなりに厚みがあり、上下に布が貼ってあって、ガムテープが側面にきれいに巻かれていた。 「なにそれ」わたしが聞く。 「練習台」水野はそれを肩に担いで、鼓みたいにポン、と叩いておどける。バスタオル一枚のくせに膝を曲げて腰を落とすからきわどい部分が見えた。練習台はもちろんポンとは鳴らず、ベッと鈍い音を出した。 「どうやってつくったのそれ」 「牛乳パックを束ねて作るのよ。あ、もちろん飲み終わった牛乳パックよ」 「や、それはそうだろうけど、ふうん。牛乳パック。すぐ潰れそうだけど」 「ところがどっこいよ、れんちゃん。一年は保つよ。徐々に変形して使えなくなるよ」  こう、よく洗って縦になったのを束ねてね、古くなったTシャツをギュッと絞って、絞ったほうが下側になるようにして一個だけ牛乳パックの底を開けておいてそこに絞った先を入れて……と水野は説明する。あ、作ってあげようか、と言うので、遠慮した。 「ねえ、なんで水野ってドラムやってるの?」 「うーん」  水野は考えている様子もなく、化粧水を顔や腕にぺちゃぺちゃつける。 「それはね、なんかお父さんっぽいでしょ、ドラムって。だから憧れてるし、かっこいいんだよね」 「お父さん? 一番後ろでずっしり構えてる感じが?」 「そう、一番後ろで、全体を眺めてるでしょ。こう、たとえばれんちゃんの背中を見て、念を送るわけよ、次のベースラインかっこいいんだからちゃんとやれよ、とか、歌ってる遠矢の背中に、テメエ楽してんじゃねえぞ、とか。すぐ分かるからね、失恋して、男なんてどうでもいいって開き直ってる女の歌なのに、ボーカルが気を抜いて甘ったれた声出してたり、ベースが未練タラタラな音出してたりすると、ムカつくしそうじゃねえだろって思うから、叩きながら念を送ってる。ちゃんとしろって。わたしはね、怒ってますよ、だいたい」  たしかに、たまにライブハウスのスタッフや他のバンドが撮った映像で自分たちの演奏を見ると、水野はたいてい、まっすぐ伸びた黒い髪のあいだから呪怨のような青白い顔を覗かせて、うしろからわたしたちの背中を睨みつけている。あれは怒っていたのか。 「もどかしいのよ。ドラムだけ、音で感情出せないでしょ。なんだろうなあ、例えるならば、ご主人様の頭に矢が刺さってて、でもご主人様はそれに気づいてなくて『ご主人様、頭、頭! 頭に矢が刺さってますよ!』ってさっきから必死に伝えようとしているのに喉から出てくる音が全部『ワン』になっちゃう犬、みたいな」 「それはどういう」 「声にならない声を必死に届けようとしてるの。ドラムだけ、何を思ってもそれは音に乗らないから。もちろんテンポとか強弱はあるけど、そういうのは事前に準備して練習しておくものだし。そうだなあ、笑いながら怒る人、みたいな?」  バカヤロウコノヤロウ、と乳液をつけながら水野は楽しそうだった。ただ、鏡を見つめながら真剣な顔をしているので、笑いながら怒る人ではなく、真顔で怒る人になってしまっていた。 「ヤマダさん、大学どこ行くのかなあ。遠矢はどうせ適当な大学だろうけど、ヤマダさんは国立とか行くのかな。れんちゃん、ヤマダさんと仲いいよね」  水野は丹念に、目の下からこめかみに向けて弧を描いて指先で優しく乳液を塗っている。ふだんほとんど化粧っ気がない印象があるから、意外だった。わたしもたまには化粧水とか乳液とかつけなきゃいけないな、と思った。 「わたしと山田は、小学一年生のときから一緒だからね」 「へえ」 「知らなかった?」 「うん。なんとなくそんな感じかなあとは思ってたけど。じゃあれんちゃんも大学、行けばいいのに」 「別に行きたくないから」どうやら水野はわたしの成績を知らないらしい。 「ふうん。ヤマダさんと一緒の大学いったらいいのに。ここまできたらずっと一緒で」 「わたし、山田は音楽をやってなきゃ生きていけないタイプの人だと思ってたんだけど、結局、目の前のことをなんであれ頑張るのが楽しいのかも」 「どういうこと」  めんどくさい話が始まる予感を本能的に察したらしい水野が、浅めの感情で尋ねる。 「つまりさ、うん、夢中になる対象は音楽でも勉強でもなんでもよくて、どんなものにも自分を納得させて、努力することそのものを謳歌できるひと、ってこと」 「よくわかんない」 「つまり、自分を騙して好きじゃないことを好きだと思ってやれること!」 「ふーん。そんな人間いないと思うけど」 「そう?」  乳液のキャップをパチンと閉めて、こちらを向く。その表情に、めんどくさいという気持ちと、ひとこと言っておきたいという気持ちの両方がありありと浮かんでいた。 「好きだと思うことに自分を騙すとか、関係ないと思うよ」 「そう?」わたしはひるむ。 「れんちゃんだって、自分で好きだからベースやってるんじゃん」 「それは、わたしには音楽しかなくて音楽が好きだから」 「ふーん」 「ちょっと、離脱しないでよ」 「いや、めんどくさいんだもん」 「わたしってめんどくさいですか」 「めんどくさいです」  じゃあ寝ましょう、と言って水野は電気を消した。水野はソファで、わたしはカーペットの上に布団を敷いてもらって、寝た。  翌朝、五時半。水野の母親の帰りを待たずに、わたしはアパートの一階のポストまで新聞を取りにいった。新聞に載っているはずの、わたしの家の玄関で殺された少年の名前を、確かめるためだった。 ◆  わたしは高校を卒業して、一人暮らしを始めた。マクドナルドでアルバイトも始めて、ソナリと夜勤に入りまくって楽しかった。ソナリは大学を卒業したあとミャンマーに帰って、いまは日本料理屋をいくつも経営している。去年、新しくオープンしたお店には「れんげ」という名前をつけてくれた。わたしと同じ名前だ。  そもそもなぜわたしの名前はれんげなのか、聞いたことないので知らないが、たぶん父が大のチャーハン好きだからだと思う。父は母が作るチャーハンが大好きなのだ。  バンドでメジャーデビューするというわたしの目標は、長い時間をかけてようやく叶ったが、それは水野も遠矢も梢もいないバンドだった。悪いケチャップは結局、高校を卒業してからは一度も集まることはなかった。メンバーのうち、結果的に音楽で成功した、というか成功するまで続ける根気があったのはわたしだけだ。高校を出てから二十六歳でメジャーにいくまで、八年もかかった。そのあいだいろんなバンドを掛け持ちしながら暮らした。収入はずっと同棲していた恋人時代の夫に頼りきりだった。十八から二十六までの八年間の長さはもう、ほとんど人生だ。実際、まわりのバンドを見てみても、八年も売れないバンド活動にしがみついている人間なんてほとんどいなかった。わたしの経験上、バンドマンという生き物は、ほとんどが最終的には居酒屋店員になっていく。それは決して逃げではなくて、自己満足の音楽より、他人に奉仕する居酒屋店員のほうがやりがいがあるということに気づくのだ。わたしは子どもだったから、自己満足を愛で続けて、現在に至る。  梢は高校卒業後、国立大学を出てNHKの職員になった。遠矢は大学を中退して、インディーズで歌を続けていたけど結婚してお母さんになってやめた。水野はわたしと同様、大学には行かず、いくつかのバンドでドラムを続けていたが、母親と一緒に祖母が住んでいる北海道に引っ越して、いまは事務の仕事をしているらしい。そろそろ結婚するのだとか。三人とも、もう何年も会っていない。みんな、全然幸せだと思う。もう会いたいとは思わないが、それはみんなが全然幸せだからだ。それぞれの幸せに、水を差すようなことはしたくない。馬鹿みたいな純粋さでいまも音楽を続けてるなんてどう考えてもダサいのはわたしだ。わたしだけあの日のアホ面のまま、みんなの過去に留まっている。わたしのせいで、わたしたちは仲良く一緒に痛々しい過去を笑うことができなくなったのだ。  男の子が玄関先で殺されたこともあって、母は実家に戻ったきり帰ってこなかった。父も兄も母もいなくなったわが家で、高校卒業までの半年間、わたしは一人で暮らした。本当ならあの孤独な日々に深い悲しみを胸に刻んで、以降の人生において大いなる同情を獲得することもできただろうが、実のところめちゃくちゃ楽しかった。わたしはほとんど学校に行かず家中で音楽を鳴らし続けた。箪笥に残された通帳から預金を降ろし、家にあった金目のものを売り払い、楽器やアンプやCDを買いまくった。わたしの家は二十四時間体制で、あらゆる部屋であらゆる音楽が鳴っていた。レゲエ、アンビエント、ラテン、クラシック、現代音楽、などなど。取り残されたわたしは、自分に何が足りないのか知っていた。音楽、音楽、音楽。そしてほんの少しの、愛。高校を卒業して、しばらく水野と二人で部屋を借りて同棲して、半年くらいでわたしは今の夫と付き合い始めてそっちの家に転がり込んだ。あっというまに同棲十年目を迎えて、先月結婚した。  そう、あれから十年経って、実家にいちばん長く帰っていないのは、何を隠そうこのわたしになった。この十年の間に、実家には母が戻り、兄が戻り、そして父がバングラデシュから戻った。いま、大きな門がある東小金井のわが家では、父も母も兄も揃って、一堂に幸せな家庭を運営している。 父は予定より少し長く働いたあと、定年退職してセカンドライフを楽しんでいるし、母は精神の安定を取り戻して、父と一緒にテニスや登山やツーリングで忙しそうにしている。兄は二年間の海外放浪を経て、大学に入り直して小学校の先生になった。スーツで家を飛び出てから二年間、兄は海外にいたのだ。  わたしは十年間、実家には帰っていなかったが、別に絶縁したわけでもなく、その間も家族には会っていた。二ヶ月に一度は母がセッティングした高そうな懐石料理の店で食事をして、そのたびにたまには帰っておいでよと言われてきたが、わたしもあまのじゃくなのでヘラヘラと断り続けてきた。ただ、結婚してからというもの夫が「そろそろ意地を張るのはやめろ」としつこいので、ちょうど十年だしいい区切りなので帰ってみることにした。  十年ぶりの実家の夜ご飯はオムライスだった。部屋のインテリアもほとんど変わっていなかった。母の手料理は相変わらず最高に美味しかった。わたしが帰ってきたからだろう、父も兄もあの日の出来事を思い出して、皮肉を言って笑ってみたりしている。わたしはお酒を飲みながらしみじみ、ああ、これが喜劇なんだな、と思った。調子に乗ったわたしは、それまで一度も話題にしなかった、殺された少年のことも話してみた。兄に対して、まさか家から飛び出たその日に、本当に男の子が助けを求めにくるなんて皮肉だよねえ、とからかったところ、なにそれ、どういうこと、と変な冗談みたいに受け取られるのだった。 「泊まっていく? 着替え、用意してるよ」  母が尋ねる。父が、そうしなさい、と言う。わたしは、夫が待ってるからと言いつつ、うまく断ることができずに、優しさに甘えて泊まっていくことにした。