待ち合わせ場所に牛込柳町駅前のファミリーレストランを指定したのは、堀林さんのほうだった。 約束の時間、午前十一時ぴったりに入り口のドアを開けると、店員がぼくを見つけるより先に、堀林さんと目が合った。顔を見るのは初めてだったけれど、すぐにこの人だと分かった。彼女が座っていたのは、入り口にいちばん近いテーブルだった。 慌てたように立ち上がって、ぺこりと頭を下げた。地球みたいな色をした、小さくて丸いイヤリングが揺れた。電話口で本人が言っていた通り、丸い印象の人だった。特徴を聞かれて、「全体的に丸い感じです」と答える人も珍しい。正直なところ、もっと太った人を想像していたけれど、本人はかなり痩せていた。心が折れそうなほどタイトなスキニーパンツを履いてたが、腰回りにはほとんど贅肉が乗っていなかった。それでもたしかに、彼女が全体的に丸く感じられるのは、きっと大きな瞳と、丸い顔のせいだった。 「ナカタさんですね」 「はい、そうです。堀林さん」 堀林さんはぼくに握手を求めた。客単価が千円に満たない大衆ファミレスで、固く握手をする二人は周りにどのように見えているのだろうと思いながら、仕方なく握手に応じた。こういうファミレスでは、握手と乾杯はやめたほうがいい。オフィシャルな社交なら、ここからそう遠くはない神楽坂の個室フレンチあたりで執り行うべきなのだ。この世界にはTPOというものがある。 堀林さんはヒールのある靴を履いていて、それでも百七十三センチのぼくより二十センチは身長が低かった。彼女はさっさと席に腰を下ろした。ぼくはすこし合間をおいて、向かいの席にそっと座った。 堀林さんが最初に連絡をよこしてきたのは、先週の月曜日のことだ。昼まで弱い雨がだらだらと続いていた日だ。 ドラッグストアで買い物をしていると、身に覚えのない番号から突然電話がかかってきた。選考が進んでいるセメント会社からの連絡だと思い、右手に持った買い物かごを床に置いて急いで電話に出ると、「お世話になります」と女性の声が聞こえた。その声は、「ナカタさんに是非お仕事を紹介したく、お電話いたしました。ぜひ力になりたいのですが」と早口で言った。ぼくは不審に思って、すぐに「結構です」と言って電話を切った。かけなおしてくる気がして、買い物かごを白い床に置いたまましばらく立っていたけれど、携帯電話の画面は真っ暗なままだった。シリアルバーと、いつもの癖で半額になったおにぎりを三個買って、家に帰った。 翌日、もういちど連絡がきたときには、ベッドに寝転んで本を読んでいた。上半身だけ起こして、「もしもし」と電話に出た。 「ぜひ紹介したい仕事があるので、今週中に時間を作っていただけませんか」 電話の声は言った。そのときはじめて、ぼくは堀林さんが何者なのか尋ねた。「仕事を見つけてきて、それをあなたに紹介するのがわたしの仕事です」と堀林さんは言った。砂漠の村で井戸を掘っている海外青年協力隊が、日本から来たテレビの取材に応えるみたいに、その受け答えは誇らしげで、堂々としていた。 料金を聞くと、ぼくは一円も払わなくていいらしい。疑心暗鬼ながら話を聞いているうちに、とりあえず一度会ってみようかという気持ちになっていた。ぼくが彼女のことを簡単に信用してしまったのは、彼女の声が音痴だったからかもしれない。たまに、声を聞いただけで、この人は歌を歌ったら絶対に音痴だろうとすぐにわかる人がいる。音痴に悪い人はいない、というのがぼくの持論なのだ。 昨日の夜、堀林さんは三度目の電話をかけてきた。最後に交わした会話は簡単だった。彼女はぼくの容姿を尋ねた。しばらく悩んでから、黒いふちの眼鏡と、右目の目尻にほくろがあると伝えた。堀林さんはくすくすと笑って、小さな声で「なるほど」と言った。ぼくはばつが悪かった。でも、ぼくの特徴といえば本当にそれくらいしかないのだ。実際に会ってみて、堀林さんは「これはたしかに、黒いフチの眼鏡と目尻のほくろくらいしか特徴がない顔だ。仕方がないな」と納得しているように見えた。 彼女から渡された名刺には、行儀正しい明朝体で「堀林かえで」と書かれていた。それ以外の文字は見当たらなかった。電話で話したときの印象に比べると、ずいぶん温和で、それも常識があるように見えた。彼女の目の前には氷が入ったグラスが置かれていた。氷の表面はすっかり乾いていて、霜が降りている。 店員がぼくのすぐ隣に立って、「注文はお決まりでしょうか」と訊いた。ぼくはドリンクバーを注文した。ぼくよりもすこしだけ若く見える愛想のいい男性店員は、ドリンクバーだけですと割高になりますが、よろしいですか、と尋ねた。朝からの雨で、ぼくはあまり食欲がなかったけれど、ドリンクバーだけだとなんだかもったいない気がして、ドリアを注文した。 「この名刺、名前しか書いてないですね」 ぼくが言うと、堀林さんは「裏を見てください」と言った。メールアドレスと電話番号が書かれていた。 「でも、アドレスと、電話番号だけです」 「その通りです」 「どこかの会社に勤めているわけじゃないんですね」 「はい。仕事を探して、そこで働く人を探すのがわたしの仕事ですから。組織に所属する必要はありません」 ぼくは彼女の言っている意味がよくわからなかった。ぼくは自分ひとりの仕事すら満足に見つけることができないのに、この世界にはみんなのぶんまで仕事を探す仕事があるのだ。 「ところで、ナカタさんの今の状況についてです。今年の三月に大学を卒業して、現在就職活動中。そうですね?」 ぼくは小さくうなずいた。 「いまは六月ですけど、この三ヶ月間でなにか進展はありましたか」 堀林さんはきっと、大学の卒業生名簿かなにかを見たのだろう。卒業するときに、学生室のアンケートで『進路未定・無職』に丸をつけて提出したので、ぼくが無職だという情報がおおやけに出回ったのかもしれない。いずれにせよぼくは、個人情報にうるさい人間ではないから、特に気にはしなかった。ぼくの個人情報にいちいち立ち止まって、頑張っていたずらを思いつくほど、世界は暇ではないはずだ。彼女はぼくの目を見つめて、質問の答えを待っていた。 「とくに進展はありません。唯一期待していた、セメント会社の三次面接も落ちたみたいです」 堀林さんは、どことなく笑みを浮かべながら「ナカタさんは、セメントって感じじゃないですね」と言った。 「いいですよ、励まさなくて」 「いや、励ましてるのではありません。セメントっていう感じの人間と、セメントって感じじゃない人間がいたときに、どちらが優れているという話ではありませんから。ところで、セメントの会社ってなにをするんでしょうね」 なんだか馬鹿にされているような気がしてきた。 「セメントを作って売るんでしょう」 「なるほど、ナカタさんはそういうお仕事がしたいんですね」 「特にセメントを作って売ることにこだわっているというわけではないです」 「セメントが好きなんですか?」 「好きではないですが、セメントは大切ですよ」 ぼくはそこで、『図解 よくわかるセメント業界』を買って勉強したセメント製造流通業の社会的意義について語ることもできたけど、やめておいた。 「では、さっそくですが、本題に移りましょう」 堀林さんはそう言うと、背筋をぴんと伸ばして、彼女の右隣の壁に立てかけるようにして置いてあった黒いバッグの中から、ごく薄いファイルを取り出した。折り曲げた部分がすぐに痛々しい白色になるような、よくある半透明のファイルだったけれど、かすり傷ひとつついていなかった。 「潜水艦で働きませんか」 地元のドーナツショップでアルバイトしませんか、というくらいの気軽さだった。遠くのほうのテーブルでは、年配の客たちが相変わらず持病の話で暇をつぶしていたし、キッチンからは食器がぶつかり合う音がガシャガシャとひっきりなしに聞こえていた。低音で唸るドリンクバーはどこまでも業務に忠実で、内容液を効率よく冷やすために全力を注いでいた。 ファイルのなかから、折り目ひとつない一枚の紙を引き抜いて、マジシャンがトランプを繰るような手付きでファイルの上にすばやく重ねた。白い紙は均等な余白を上下左右に残して、美術館に飾ってある絵画みたいにファイルの上に定まった。 そこには白黒の世界地図が描かれていた。地図はヨーロッパ大陸を中心に据えたものだった。いちばん目を引く位置にイギリスがあって、五歳児が焼肉バイキングで作ったソフトクリームみたいに不細工な形をしていた。全体的に縦に引き伸ばされている気がするけれど、世界地図というのはたいていどこかが狂っているものだ。 「人員を募集している潜水艦は、いまここにいます」 彼女がペンで指したのは、『て』の字をしたアフリカ大陸の西海岸だった。 「北大西洋と南大西洋の、ちょうど中間くらいの場所です。西アフリカ諸国の沿岸です」 その西アフリカ諸国という場所には、収穫期を迎えたとうもろこしの粒みたいに、小さな国がびっしりと並んでいた。どうにも馴染みのない場所だ。左から順に国の名前を挙げてもらっても、ぴんと来ないだろう。 「すこしお聞きしてもいいですか」 ぼくが尋ねると、堀林さんは「どうぞ」と返した。 「それって日本の潜水艦ですか?」 「いえ、違います」 「じゃあ、どこの国の潜水艦ですか」 「この潜水艦は、どこの国のものでもありません」 ぼくは困ってしまった。国家以外に、どんな人物であれば潜水艦なんてものを持つことができるのだろう。たとえば、シリンコンバレーの途方もない資産家であれば、潜水艦を持つことができるのだろうか。 「それで、もし潜水艦で働くことになったら、ぼくは潜水艦で何をするんですか」 「細かな業務内容はお伝えできませんが、コピー機の営業マンではないことは確かです」 ぼくはふふふ、と適当に半分だけ笑った。その冗談がセンスのいいものなのかどうか、ぼくのセンスでは正直にいってよくわからなかった。 「一般論として、潜水艦って何をするものなんでしたっけ」ぼくが尋ねる。 「主に敵を監視して、ときには攻撃します。隠密性と静粛性が最大の特徴です」 ドリアが届いた。スプーンで全体をゆっくりかき混ぜながら、ぼくは考えた。ひとつの曖昧な回答が、ぼんやりと頭のなかに浮かんだ。その潜水艦は地球上の、ぼくたちが知っている国のものではないのかもしれない。 レジには『混雑時の個別会計はご遠慮ください』という堂々とした但し書きがあった。どう贔屓目に見ても混雑しているとは言い難かったので、個別で会計をしてもらうことにした。女性の店員は完全な無表情で、われわれの会計を正しく分別してくれた。 財布をカバンに入れて店を出ると、一階へ続く階段の終わりが右に折れて、スーパーマーケットのカート置き場に繋がっていた。彼女はそこで買い物をして帰ると言った。このあたりに住んでいるのか、すこし気になったけれど、余計な詮索はやめておいた。ぼくは時間をもらったことへのお礼を告げて、彼女と別れた。しかし、十歩も行かないうちに思い直して、スーパーの入り口まで駆け足で戻った。 「堀林さんは、宇宙人なんですか?」 彼女は髪を後ろで縛って、耳を出していた。ほんの数秒のうちに、慣れた手つきで髪を束ねたのだろう。女性にはそういうことができる。リラックスした表情で、買い物かごに手をかけていた。ぼくが突然戻ってきて、大きな声で妙なことを口にしたものだから、もともと丸い目をゴムまりみたいに丸くしていた。 「さっきの潜水艦、あれって宇宙人の潜水艦ですよね」 堀林さんは、困ったような、照れたような顔をして笑った。しばらく黙って考えたのち、「私は地球人です」とまず最初に答えた。ぼくはその言い方がおかしくて、思わず吹き出してしまった。彼女もひとしきり笑って、また少し時間を置いたあとで、ゆっくりと口を開いた。 「潜水艦で働く気になったら、いつでも連絡してください」 あと数ヶ月は、東京で地球人に雇ってもらえるように、就職活動を続けよう。それでうまくいかなかったら、海の底の潜水艦で宇宙人の手下になって働くのも、待遇次第では悪くないかもしれない。 雲のあいだから、ひさしぶりに梅雨の太陽が顔を出していた。長いあいだ湿っていたアスファルトが、ゆっくりと乾く音が聞こえた。