火事を見に行く

 物が捨てられないのは、何にでも愛着がわいてしまう性格が原因だと、自分でも分かっている。そこで、部屋があまりにも散漫としてきたら、ぼくは「遺族ごっこ」をはじめる。不謹慎だと思われるかもしれないが、人を殺すのではなく自分を殺すのだから、誰にも文句を言われる筋合いはない。自分がすでに死んでしまったと仮定して、自分の持ち物を遺品整理のように捨てていく。  その日も翌週の引っ越しにそなえて、ぼくはかなり疎遠になっている父方のおじさんになりすまして、遺族ごっこをはじめた。まず、お酒が大好きでいつも顔を真っ赤にしているおじさんになりきるために、普段は飲まない芋焼酎を買ってきて飲んだ。おじさんは、本やCDにはまったく興味がなかった。四年間勤めたバイトを辞めるときにもらった寄せ書きの色紙や、高校の同窓会誌も紐で縛って束にしてしまった。作業がひと段落つくころには、すでに空が白くなりはじめていた。夜明けとともに、ようやく布団に入った。 ☆  目が覚めたのは朝の九時半だった。三時間くらいしか寝ていなかったけれど、眠気は消えて、頭は冴えていた。いつものコンビニに行っておでんの大根とたまごを買って、入り口の扉の前で立って食べた。火傷しながらスープを飲み干して、そのままごみ箱に容器を捨てて、家に帰った。  すでに大学も卒業して、卒業証書も受け取りに行ったし、アルバイトも辞めていた。ガスや水道や電気の連絡もひと通り終えたので、なにもすることがなかった。転出届を出しに行こうかと思ったけれど、日曜日だから役所は開いていない。来週の引っ越しに備えるとしても、荷造りを始めるにはすこし早い。あと数日は、ここに住み続けなければならない。生活に必要なものは、使えるままにしておかなければならない。  準備が早いのはいいことだが、早すぎるとかっこうが悪い。準備が早すぎる悪例がひとつある。高校生の頃、ぼくは九州の田舎に住んでいた。ある友人と市電に乗って、繁華街へ行ったときのことを思い出す。市電の運賃は、どこまで行っても一律で百六十円だった。その友人は、電車に乗るとすぐに財布から百六十円を取り出した。百円玉が一枚、五十円玉が一枚、十円玉が一枚だった。そして、目的の駅に着くまでの二十分間、三枚の小銭をずっと右手で握りしめていた。ぼくは彼を見ていて、変なやつだと思った。百六十円という三枚の小銭は、それを取り出すのにふさわしいタイミングというものがある。  間抜けな友人の話をしたからといって、べつにぼくが優秀な人間というわけではない。ぼくは大学一年生まで、キムチは白菜ではなくお肉だと思っていた。実は、小学生くらいのころに一度、スーパーの試食で配っているキムチを食べようとして「辛いからやめたほうがいい」と親に止められたことがある。そのときに「あんな真っ赤なお肉、美味しくないに決まってる」と思い込んだ。キムチを食べることができない自分を擁護するために、キムチに対する態度を決めるのに必死になって、キムチが何でできているかはっきり考えないまま、キムチは肉だと断定してしまった。  ものごとの本質(この場合、キムチは白菜であるということ)をしっかり考えないまま、安易にものごとへの態度を決めつけようとした場合に、こういう勘違いが起こる。どういう態度をとるか、ということばかりに気を取られると、そのもの本質をしっかりと見つめることができなくなるらしい。  間違いや勘違いというのは、ゼロから起きるものではない。キムチの例と同じように、その前提に原因があることは、ままある。  歌を歌っていて、ふと歌詞が出てこないことがある。君が代を歌っていて、「君が代は、千代に八千代に、巌となりて~」のあとなんだっけ、と思って、なかなか次が出てこなかったりする。千代に八千代に、のあとには「さざれいしの~」という一文がはいるのに、そこを無視して「千代に八千代に、巌となりて~」と何度も口ずさみ、次の歌詞を思い出そうとしても、埒が明かない。歌っている本人は「巌となりて~」のあとのことしか考えていないから、その前に「さざれいしの~」を飛ばしたせいでズレが生じてしまっていることに気付かない。ほかにも、たとえば新鮮の「鮮」の字の左側を「言」だと思いこんでいて、「言」と書いた後に「右側にくるのはなんだっけ」といくら考えても正解が出てこない。右側について考えれば考えるほど、「言」が本当に正しいのか考える余裕がなくなってくる。  このようにして、答えが出てこなくて行き詰ったり、変な選択肢しか出てこなかったりするときは、たいていどこかで前提を取り違えている可能性が高い。 ☆  木曜日には春一番が吹くらしい。昨日の夜、となりの駅で一緒にごはんを食べた伊藤くんが教えてくれた。伊藤くんはぼくと同じ学年だったが、彼はまだ卒業しない。就職先が決まってないから、留年するらしい。昨日もまた、彼の就職活動の愚痴を聞いた。あるテレビ局のエントリーシートで出された課題が、「あなた自身をゆるキャラに例えて自由にPRしなさい」というものだったらしい。伊藤くんは大学に入るまえに二年浪人していて、今年で二十五歳になる。夜中の一時に、自分をゆるキャラに例えてそのイラストまで描いているとき、さすがに「自分は何をやっているんだろう」と思ったらしかった。それにしても、オリジナルのゆるキャラを送った挙げ句、不採用通知を叩きつけられるというのは、なんだかとても気の毒な感じがする。  今週に入ってから、急に暖かくなった。今日は日曜日だが、春一番も木曜日を待たず今日吹いたっておかしくない気がする。コンビニに行ったとき、コートを着て家を出たのを後悔したくらいだ。コンビニでは、おでんのほかに、豆乳を買った。燃えるごみしか出さないようにするために、紙パックのラインナップから選んだのだ。ペットボトルはまだ週に一度回収があるからいいほうだが、燃えないゴミや、特に粗大ごみは捨てるのが大変だと今回の引っ越しで思い知った。  捨てるのに困ったものはたくさんあったが、なかでもロフトの上に、なぜか巨大なのこぎりがあって、どうしたものか、と一週間くらい考えていた。「なぜか巨大なのこぎりがあって」などと言いながら、もちろん、自分で買ったものであった。机の角のでっぱった部分を切り落とすために買ったのだ。部屋が狭いので、クローゼットの扉がスムーズに開くためには、どうしてもその部分が邪魔だった。そこでインターネットでのこぎりを注文したのだが、届いたそれは刃渡り四十センチほどで、田舎に暮らすアメリカ人が近所の人を殺すのに使うような凶悪な見た目をしていた。どう処分するべきか随分迷ったが、刃の部分をタオルで包んで燃えないゴミに出したら、普通に持って行ってくれた。  時計の針は午後の二時を指していた。ぼくのアパートはとてつもなく狭いけれど置き時計は二台あって、玄関の一台は、ベッドの横に置いたもう一台より常に五分ほど遅れている。どちらも実家にあった引き出物をわざわざ東京まで持ってきた。玄関にある時計というのは、どこの家庭でも遅れがちであるように思う。居間と違って玄関は労働環境が悪い。夏はやたら暑いし、冬は家の中でいちばん寒い。そんなところで働いていると身体のあちこちにガタがきて、時間はゆっくりと流れはじめる。そうしてぼくのアパートの部屋も、四年という歳月をかけて厚みを作ってきた。玄関と居間が作り出した、五分間の厚み。 ☆  春一番が吹く日に、このアパートを引き払う。 ☆  明日の朝、つまり月曜日の朝には、燃えるごみの回収がある。東京ではごみは早朝の回収だが、ぼくの地元では、ごみの回収は深夜に行われる。高校受験のころ、遅くまで勉強していると、静寂のなか、かすかなエンジンの息づかいを伝えながら、深海を泳ぐクジラのようにやって来るのがごみ収集車だった。ぼくは団地の五階に住んでいたので、そいつをベランダ越しに見降ろしていた。街が眠っていてもあちらは安全第一で、中から人が出てきては、オーライ、オーライ、オーケーイ、と大きな声で叫ぶのだった。  そのころ、高校受験の追い込みで朝まで勉強したのが、生まれて初めての徹夜だった。それまでは、夜は世界の連続をちょん切りに来て、寝ているあいだは永遠で、擦りむいた膝小僧も翌朝になれば治っていた。いちど徹夜をしてしまって、朝がゆっくりと白んでいくのを見てしまってから、夜はただ空が暗いだけの、昼間と同じひとつながりの連続した時間になってしまった。  中学生のぼくと小学生の弟の、二人部屋の壁掛け時計がどんなだったか、今となってはまったく思い出すことができない。時計は、現在の時刻を知らせる便利さと、時間の経過を知らせる残酷さの両方を備えている。いまの時計のデザインでよくないのは、常に最新の時刻を提示してくるところだと思う。こちらが見たときにさっと最新の時刻を示して、あとはこちらが目を離したら、そのまま止まっておけばよいのだ。こちらが見ていないときまでカチカチと律儀に時を刻む必要なんてまったくない。一秒、また一秒と、時間が経過していることなんて、教えてほしくない。 ☆  遠くから、サイレンの音が聞こえた。消防車のサイレンだろう、カンカン、という鐘を突くような乾いた音も混じっている。はっと気が付いて、ぼくは深く腰をおろしていたソファクッションのなかで目が覚めた。気づかないうちに眠ってしまったようだったが、部屋は明るく、あまり時間は経っていないようだった。  サイレンの音はどこか遠くで、いくつも重なり合って響いている。どうやら火事のようだ。ぼくはふと、火事を見に行ってみよう、と思った。火事を見に行くなんて、野次馬みたいで嫌だけれど、こんな晴天の気持ちがよい日に、火事というものはどこかフィクションみたいな気がした。火事なんてありっこないような気がしたのだ。それに、四年間暮らしたこの町を、もう一度ちゃんと自分の足で歩きたい、とも思った。サイレンの音が、よく試験前に本を読むために居座った駅前の喫茶店や、つけ麺の麺と普通のラーメンの麺の太さが同じで美味しくないラーメン屋のほうから聞こえているような気がして、ケータイも財布も持たずにキーケースだけを持ってアパートを出た。風がすこし冷たいが、真っ青な空が気持ちいい。雲一つないのに、太陽が見当たらない。  アパートの前の一本道を、どちらに向かおうか考える。道は狭く、サイレンの音は周囲に様々な反響をして、どちらから聞こえているのか分からない。煙はどこにも見えなかった。火の元が分からなければ向かうあてがない。仕方がないので、K霊園に向かうことにした。家から五分ほど歩いたところにある、都立の大きな霊園だ。霊園というのはもちろんお墓だけれども、都立の広い墓地なので日曜日には人が多く、公園のように賑わっている。とりあえずそちらに向かって歩くことにした。  駅を左に見ながら、北口駅前のタクシー乗り場を通り抜けて、今度住む街のことを考える。なかなか静かなところで気に入っているのだが、最寄りの駅が地下鉄なのが気に入らない。改札を出ると、地上の出口に向かって長いエスカレーターがあって、そのエスカレーターは普段止まっていて人が乗ると動き出すのだが、その作動音がとても大きくて怖いのだ。地下の通路に、ゴウン、と大きな音が響く。  周囲にはスーパーやコンビニ、ドラッグストアやレストランが集まっていて、生活には不便がなさそうだ。しかし、地下鉄というのは、当たり前だが地上からは線路が見えない。すると、地下鉄の駅のある街は、動脈も静脈もないのにいきなり心臓だけがどんとあるような、栄えてはいるもののどこか血が通っていないような、不健康な感じがする。  霊園に向かって駅から離れるに従って、道の幅が少しずつ広くなる。霊園の正門へと伸びる表参道には、ケヤキ並木がゆるやかにカーブしながら続いている。線路から離れていくように道は続き、木陰には石材店がずらりとならんでいる。それぞれの店先にお花の入ったバケツが並んでいて、歩いても歩いても、同じような光景が繰り返されていく。こんなにたくさん石材店があって、よく潰れないな、と思う。ウィンドウに丸や四角のお墓が展示されていて、なかには『グッドデザイン賞二年連続受賞』なんていう墓石もある。お墓の世界も工夫を凝らしているらしい。霊園は広いので車でも入れるが、電車で来た人のために、石材店が貸し自転車もやっている。どの自転車も、うしろのカゴに四十センチほどのホウキのミニチュアが備え付けられている。これで墓石を掃除するのだろう。  霊園の正門に来ると、入り口はロータリーのようになっていて、三方向に伸びる道はどれも見通しがよかった。ただ、そのうち一本の道は線路に向かって垂直に伸びていて、いつもお花が供えられている小さな踏切に続いている。ここ十年以上、目立った事故は起きていないと聞いたことがあるが、それでも地元の人たちに問題視されている踏切だ。遮断機の棒の長さは二メートルほどしかない。車はもともと通れない設計で、問題は反対側までの距離にある。K駅はちょうど二つの運行ラインがひとつになる駅で、いくつも線路が並行しているから、約二十メートルほどの長さを歩いて渡らなければならない。横断している途中に左右に目をやれば、気が遠くなるくらいどこまでも線路が広がっていて、かえって見晴らしがいいから事故は起こっていないのだろうけど、とても不安な気持ちになる。ぼくも怖いから渡らないようにしている。  サイレンの音は、なおもあちこちから聞こえてくる。おそらく何台も、移動しながら鳴らしているようで、これではまるで、あらゆるところから火が上がっているような気になってくる。そこに、一台の消防車が、ぼくが歩いてきた道を追いかけるようにして走ってきた。振り返ると、運転席にヘルメットを被った男が座っている。近くで聞くと、サイレンの音は頭が割れるようにうるさい。消防車はロータリーを時計回りに半分回ると、門の目の前でぴたりと停まった。助手席から、作業服の男性が降りてくる。霊園の管理事務所からも人が出てきて、道路のまんなかの、銀色に光る棒のようなものを抜いて、消防車が通れるようにした。そのあいだぼくは、「東京消防庁」と白い文字が書かれた消防車を眺めていたが、側面のむき出しのメモリやボタンが不用心に思えて仕方がなかった。いまぼくが、そのうちのどれかをこっそり触って立ち去っても、ばれないような気がした。考えてみると、同じ非常事態にはたらく車でも、消防車と救急車では大きな違いがある。消防車はごちゃごちゃしていて、反対に救急車というやつは、つるんとしていて質素なかんじがする。そのかわりあの白いボディの中には、血を止める薬や呼吸を維持する機械など、さまざまなものが入っているに違いない。消防車の中身なんて、水ばかりだ。外側にボタンが並んでいるのは、そういう理由があるのだ。  ぼくも小さいころは、他の子供たちと同じく消防車に憧れた。見た目が真っ赤で派手だし、梯子とかホースとか、いろんなパーツが装着されていてかっこいい。しかし、大人になってからは、消防車より救急車の方が身近になった気がする。小さい頃には興味がなかった、あの無機質で卵のような車体。  そんなことを考えていると、消防車は思いのほか落ち着いた速度で、ぼくを抜いてゆっくりと霊園の中へ走っていった。もちろんぼくも、それを追いかける。真っ赤な車体がカーテンのように、霊園の緑をめくっていく。背後の歩道のわきに、禁、厳、気、火、という文字が見える。右から読んで、火気厳禁、だ。霊園は公園になっていて、緑が多い。車が通るような大きな道はアスファルトだが、その車道によって区切られたあとの、残りの細かい道はほとんど芝生になっている。看板に、「芝生の上で線香に火をつけないでください」とある。火の気があると、すぐに燃え広がるのだろう。ところで、死者からすると、久しぶりの火は火葬を思い出して、感慨深かったりするのだろうか。いや、やめよう。お墓で不謹慎なことを考えると、嫌なものを見そうな気がする。  今日みたいに天気が良くて乾燥している日が危ないんだろうな、と空を見て思った。しかし先ほどからあたりの空を見渡しても、煙が立ち上っている様子はない。火のないところに煙は立たぬ、とは聞いたことがあるが、煙の立たないところにも火はあるのだろうか。あのことわざには、「火のないところに煙は立たぬ、ただ、煙がなくても火が立っている場合もあるよ」くらい詳しく説明してほしかった。  お墓参りに来たのであろう人たちがちらほらと見えるが、どの人も慌てた様子はない。しばらく歩くと消防車が三台、四台と集まっているのが遠くに小さく見えた。しかし、あたりに火の手の様子はない。  拍子抜けして、アスファルトの道から外れることにした。膝くらいの高さのお墓が並んでいるブロックを歩く。芝生とも雑草ともつかないでたらめな植物が、足首くらいまで立ちあがっていた。都営のお墓でもみんながみんな平等ではなくて、しっかりとランクがあるらしく、ここらへんのお墓はどれも小さいしお隣同士がギュウギュウで窮屈だ。墓石の形も四角ばかりで工夫がない。グッドデザイン賞のお墓では、浮いてしまって周りの死者から嫌がらせを受けそうな感じがする。端から順番に見ながら歩いていると、とりわけボロボロの、家名なんてほとんど読めなくなっている石の前に、看板が立っていた。見ると、年間管理費が納められていないから、このままだと取り壊しますよ、ご遺族の方は連絡をください、というようなことが書いてある。「期日までに連絡をください」と書かれた期日はもう二年以上も前の日付だし、丁寧に東京都知事の名前まで書いてあっていかにも効力がありそうだが、よく見ると前の前の都知事の名前だった。看板は木でできているから、ところどころ虫に喰われた様子で、いまにも崩れ落ちてしまいそうである。いっぽうの墓石は古ぼけて黒ずんで、よりいっそう頑丈さが増したように見える。  この霊園は、駅前のエリアと住宅街の中間にあって、地元住民の往来も多い。外周をぐるりと回ると遠回りになるから、南門から北門へと向ける一本道を通る。歩いて十分くらいで霊園のむこうの街道に出る。霊園のなかで中心を突き抜けるこの道だけが、等間隔に街灯が置かれていて、夜でも安心して通ることができる。道幅も広くて、日が暮れても自転車がたくさん走っている。ただ、道の両側には墓石がずらりと並んでいて、それもこちらはお墓の一等地らしく背の高い立派なのが多いから、街灯の明かりが背後に影を落として、やはりそれなりに妙な気配がある。  ぼくはお化けは信じないが、お化けを見ることはあると思っているので、暗闇に目を凝らさないようにしている。そういえば、伊藤くんの友人で、夏にどこかの廃墟へ肝試しに行って、呪われて帰ってきた者がいたらしい。呪われてしまうような気持ちで心霊スポットに行ってはならないと思う。そもそも、心霊スポットに行く、という行為自体、すでにユーレイがいることを前提とした行為なのだ。ユーレイなんていない、と当たり前のことを承知している人間であれば、わざわざ人里離れた心霊スポットまで行くことはしないだろう。そんなものは、潮干狩りをしに山里へ行くようなものだし、冬の雑木林にセミを捕りに行くようなものだ。そのようなおかしなことをする人の頭には、川辺の石がハマグリに見えたり、木の幹にとまった蛾がセミに見えたりするのである。  そうこう考えているうちに、ぐるりと遠回りをして消防車に近づいてきた。遠くから見たときには四台ほどあったように思ったが、いつのまにか一台だけになっていた。なかに人が四人ほど乗っていて、何かひそひそと話をしている。ふと、ぼくのことを話しているのではないか、という気持ちになった。考えてみれば、先ほどからお墓をわけもなくふらふらしているので、かなり怪しい人物に見えているかもしれない。火事にもいくつか種類があって、放火という可能性もある。だとすればれっきとした犯罪であるから、あまり不審者ぶって周囲を歩かない方がいいかもしれない。  「放火魔」というのは実に恐ろしい言葉である。何と言っても「魔」なのである。もはや人間ではない、という感じがする。同じように人間ではなくなった者を指す言葉に「殺人鬼」がある。放火した者が「放火鬼」とならずに「放火魔」と呼ばれるのは、「放火鬼」だと「放火器」と紛らわしいというのもあるだろうが、それ以外にもなんとなく納得がいく。火は、どうにも捉えどころがなくて、それでいて人を魅了するような何かをそなえている。殺人鬼が、その人自身が鬼に変わってしまうのであれば、放火魔のほうは何か恐ろしいものがその人にとりついてしまったような雰囲気がある。それに比べて「痴漢」はやたら男らしい。うっとうしいほどの人間味があるのは、どういうことか。  アスファルトで舗装された道に戻ってきた。消防車は、南門からゆっくりと出ていった。ぼくもそれを追いかけた。サイレンは相変わらずあちこちの方角から聞こえてくる。  自分は将来、どんなお墓に入るのだろうと考えながら歩く。ぼくは先祖の墓参りに行ったことがない。祖父母も両親も、墓参りには興味がない人たちだったが、最近になって、父方の祖父母はよく墓参りに行っているようだ。自分たちがそろそろ死ぬ段になって、いまさらあの世やら先祖の霊やらを信じはじめても遅いと思うが、彼らに対して余計なことは言わないようにしている。どうせなら安らかに死にたいという気持ちはよくわかる。  霊園を抜けて住宅街に出た。大きな病院が左手に見えてくる。この道を歩くと、この町に引っ越してきたばかりのころを思い出す。あれは大学一年生の、夏の日だった。あのころはすでにバイトばかりしていたが、ある夕方、今日みたいに用がないので散歩をしていると、盆踊りの会場に出くわした。ちょうどこの病院の中庭に小さなやぐらがあって、大勢の患者で賑わっていた。この病院はお年寄りが多い。まあ、どこの病院でも一番多いのはお年寄りだと思うけれど、いまでもはっきりと覚えているのが、やぐらの周りをぐるりと囲んだ車椅子の老人たちだった。どの人も両手をくねくねと躍らせて、陽気そうに笑っていた。やぐらの周りの老人たちは、みんなお婆さんだった。男は一人もいなかった。男たちはやぐらから離れたところで、ぼんやりと無表情で車椅子の上に座っていた。車椅子というものは、ぼんやりとしているぶんには人手が必要ない。移動しようとするときに、初めて誰かにうしろから押してもらう必要が出てくる。両手を躍らせているお婆さんたちを動かすのは、若い介護士たちだ。天を見上げるお婆さんたちの顔を、笑いながら覗きこんでいた。お婆さんたちの魂は、ぐるぐるとやぐらの中心に集まって、夕方の赤い空に吸い込まれていくようだった。  いまはまだ冬の終わりだから、病院は閑散としている。いや、冬でも病院は年中無休なのだから、なかではたくさんの人が慌ただしく生きているのだろうけれど、とにかく中庭は落ち葉だけが賑やかで、冷たい風が吹いている。どうやら、サイレンの音は病院のそばをこちらに向かって伸びる細い脇道から聞こえてくるようで、散歩道を左に曲がってみた。  サイレンの音を頼りに歩く。道はほぼ一本道だ。病院の反対側にはアパートや一軒家が建ち並んでいる。ときおり、道かと思えば個人宅の立派な駐車場だったりする。昔からの土地持ちが住んでいるのだろう、ひとつひとつの家が大きい。そういえば、ここらへんでは猫をあまり見ない。ぼくの部屋はアパートの一階で、窓の外にベランダがあり、目の前の高さ二メートルほどの塀の上をよく猫が歩いている。塀の上というのは、猫専用の通路になっているらしい。人間が住宅を建てれば建てるほど、人間の道は減っていくが、猫の道は増える。猫たちは家と家の隙間や、塀の上を道にするのだ。このまま地球上の人口が増えれば、やがて世界は人間のための家と、猫のための道だけになってしまうのではないか、と思う。  さて、ぼくは人間様の広い道をせっせと歩いてきたが、どうやらここは行き止まりだったらしい。道は左に折れて病院の敷地内へと繋がっているが、勝手に入ってはいけないだろうし、だいいちサイレンの音は逆の方向から聞こえている。おかしなことに、消防車はぼくのアパートの方向に集まっているようだ。方向感覚がおかしくなってきた。なんだか嫌な予感がする。煙はいまだに上がっていないようなので、はたして本当に火があるのかも分からないが、灯台もと暗し、まさか自分のアパートが燃えているのではなかろうかと思えてきた。いやいや、そんなはずはない、ぼくはそこから火事を探しに出てきたのだから。とりあえず、自分の部屋に戻ることにした。ふと、猫のように塀の上をしなやかに歩いて行きさえすれば近道できるのではないか、と思った。  そういえば。あれは中学生のころだった。ぼくが住んでいた団地は丘の上のような場所にあって、パーク山荘という名前が付いていた。毎朝の登校に使っていた道は、長い下り坂で、ぐるりと半円を描いて降りていく必要があった。一年生の夏頃には、これはどうもおかしい、ぼくはいつも遠回りをしているらしい、ということに気付き始めた。そしてある日、学校帰りに通学路を外れてみた。そこはたしか、アスファルトにオレンジの横線がたくさんはいった道路で、かなり急な坂だったと思う。その坂道を歩いて登って、くねくねと左右に曲がって、茶色の団地を道の両側に見ながらしばらく行くと、ぼくが住んでいたパーク山荘三十一棟の頭が見えた。ぼくは一目散に金網のフェンスを乗り越えて、雑木林の急斜面を駆け上がった。通学路のショートカットを見つけると、世界の切れ目を見つけたような気になって、それだけで何日もワクワクした気持ちで過ごしたものだ。  来た道を戻るというのは悲しい。なんだか、こんな無駄足を踏んでいると、いよいよアパートが燃えて無くなってしまうような気がする。火もとがわが家でなくても、どんどんと燃え広がってついにうちが燃えている最中かもしれない。いや、もしそうであればきっと煙が出ているはずだろう、とまた同じことを考える。大丈夫だ、やはり空には雲ひとつない。ではどうして、サイレンの音が止まらないのだ。アパートを出てからずいぶんと時間が経ったような気がする。日もだんだんと傾いてきた。今さらながら、先ほど霊園の中にいた消防車は、ちょうど給水をしていたのではないか、と思いついた。消防車の水も、使えば空っぽになる。霊園にはいたるところに給水所がある。バケツに水を汲んで、墓石を洗ったり、お花を挿したりするため水だ。  もし今、ぼくの部屋が燃えていたら、ともう一度冷静になって考える。まとめて縛っておいた本やCDが燃えてくれたら、回収に出す必要がなくて都合がいい。パソコンもそろそろ新しく買い替えたいし、どうせ木曜日には引っ越すのだから、いっそのこと燃えてしまったほうがいいかもしれない。ぼくは炎に包まれたぼくのアパートを想像した。本やCDはいいとしても、通帳なんかが燃えてしまっては面倒くさい。奨学金の返済書類は燃えてしまえばいい。いや、あれが燃えたからって借金がなくなるわけではないか。三年生のときに受けた講義で、非常勤の講師が授業をひとつ使って、自分が学部と大学院でいかに多額の奨学金を借りたか、そしてその返済がいかに大変で、いかに日本の奨学金制度がただの借金か、ということを力説してきたことがあった。同情しつつも、平常通りの講義をしてほしいなあと思ったものだ。まあ、貧乏人が努力して勉強をするというのは、とても難しいことだと思う。ぼくも奨学金を借りて勉強したので、少しは気持ちがわかる。貧乏を脱するのには勉学が必要だ、と察するのは賢いことだが、それもほどほどだから良いのであって、あの非常勤講師みたく勉学で生計を立てて生きていこう、というのはまた別の大変さが待ち構えている。非情なジレンマだ。だいいち勉学には書物が必要だが、これがまた分厚くて値段が高い。貧乏人の家はたいてい狭いのに、それがまた書物で圧迫されることになる。いいかげん、あらゆる本をデジタル化して読めるようにすればいいのだ。やっぱり本は紙がいい、味がある、などと言うのは家にスペースを持て余しているお金持ちの言い分だ。お前らのせいで、いまに地球上のすべての森が、カビまみれの本に化けてしまうぞ、というようなことを大量の本を捨てながら半分本気で思った。いや、全然本気である。そして、そろそろ著作権なんていう馬鹿げたものも無くしたほうがいいと思った。そんなものがあるから、知識がいつまでも古くて重い本の中に閉じ込められているのだ。  部屋に残された数少ない大切な本たちが心配だ。アパートに向かってずんずん歩いて行く。少し寒くなってきた。この道を歩くのも人生で最後かもしれないな、と思う。  ぼくが近所を歩いているこのあいだにも、友人たちの多くは卒業旅行と称してヨーロッパや南の島へ出かけている。大学卒業前の遊び納め、ということらしい。ぼくはどうも、そのような区切りの付け方が苦手だ。そんなことをしてしまうと、いよいよ春からは働くだけの人生だということが目の前に迫ってくるではないか。二十歳そこいらで「遊び納め」なんて、いやだ。  ぼくも大学生のあいだに一度だけ、友人たちと海外を旅行したことがある。スペインに行った。みんな何を見てもわあここが日本と違う、こんなのは日本では見ないよね、というばかりで、一緒にいて疲れてしまった。南のほうの、日本人が多く住む町に行ったとき、看板などにしばしば日本語の表記を見つけたのだが、あるお店で友人が「不在のときはボタンを押してください」という一文を指さして「日本語おかしくない?」と言ってきた。「不在のときはボタンを押してください」なんてとても自然な日本語じゃないか、とぼくは思った。外国に行って、普段意識しない日本語を急に日本語として意識するようになるから、どんな日本語も変に思えてくるのだ。言語だけじゃない、世界中どこだって、同じように道があれば人が二本足で立っていて、地面のうえに家や建物が乗っていて、木が生えたりごみが落ちていたり、お店があったり、看板があって文字が書いていたりするのだ。ぼくには、ああ、こんなところまで日本と同じだ、やはり同じ人間が住んでいるのだなあ、ということばかりに目が行くし、そこが面白い。それに、こうして自分が四年間住んだアパートの半径いくばくかをグルグルと歩き回っているだけで、案外世界は広いのだ。もし地球を一周することではじめて世界を知ることができるとしたら、百年後は太陽系を一周しなければ世界を知ったことにならないだろうし、千年後は銀河を一周することが必要になるだろう。つまり、キリがないのである。ある程度のエリアから外に出ると、世界はおおよそ内部の反復になっていく気がする。  広い道に出た。すると、目の前を一台のパトカーが通り過ぎた。とっさに、心の中の悪人がひょいとぼくのかげに隠れる。ぼくのかげにかくれたところで前面に出ているのはぼくだが、必ずそうしてしまう。パトカーを前にすると、誰もがそうなると思う。広い道は都道○○号線と名称が付いていた。都道という言葉は始めて耳にした。「都道」と聞くと、どうしてもあとに「府県」と付けたくなってしまう。その都道を右に曲がって、一車線ぶんの幅しかない細い路地を進むとぼくのアパートがある。その角をぴったりと防ぐように、ずらりと消防車が並んでいる。イチ、ニ、サン、シ、四台もある。なんだか不思議な気持ちで、やっと消防車の実物を見たような気がした。そのうちのいくつかはまだサイレンを鳴らし続けているが、どう考えても消火活動はひと段落したという雰囲気だった。緊張感がまるで無い。いや、実際の消火現場を見たことがないのでなんとも言えないが、こんな和やかな雰囲気で火を消すのが常習ならいち早く改めた方がよい、というくらいに現場は落ち着いていた。消防団員が、近所のおばさんと談笑していた。  消防車の列を右手に見ながら、その横を歩いて通り過ぎた。消防士、とひとことに言っても、色んな人がいることに気が付いた。まず、服装が人によって全然違う。どの人も背中に「K市消防団」と書かれているが、本気で火を消そうと思っていることが伺われる銀色の特殊素材風の服の者から、とりあえずの賑やかしにハッピを着ているだけ、みたいな者までいる。ハッピというのは、存外に「ハッピー」みたいな語感のせいで、生半可な覚悟で着ているのではないか、と妙な心配をしてしまう。背後から来てぼくを追い抜いて行った自転車も、消防士が漕いでいた。きちんとヘルメットを被っている。もう家に帰るらしく、仲間に挨拶をしながら、完全に油断した笑顔を見せている。  どうやら本格的に、火は消されたあとらしい。そして、消防車がずらりと整列している様子から、火はこのあたりのどこか、つまりぼくのアパートのわりと近くで上がった、ということも分かってきた。火が消えていると分かれば、火事を見に行くという当初の目的も消えたようなものだが、火は消えても鎮火したあとは残るのだから、ぼくの心の中にもその「あと」を見に行きたいという気持ちが残った。  とりあえず歩き疲れたので、いつも通っているコンビニに、ふらりと入ることにした。午前中も来たコンビニだ。四年間で千回は来たはずだ。自動ドアが開くと、大きな手作りの募金箱で、震災の義援金が集められている。あの大地震のあとは、このコンビニに往復する以外、ほとんど家に籠っていた。物流が止まって商品がほとんどなくなったり、節電で暗くなったり、色々なことがあった。そうだ、ぼくはこの町で被災したのだ。大袈裟にいえば。  ぼくが三千円を寄付したのも、このコンビニだった。地震のあと、来る日も来る日も、津波に呑み込まれていく町の映像をテレビで見て、気が滅入ってしまったぼくは、興味本位と心からの悲しみが入り混じったテレビの電源を、切ってしまいたくなった。快適な電波に乗った安っぽい悲しみから、そして、たくさんの命が一瞬で消えた現実から、目を背けよう、と思った。三千円をコンビニのレジで寄付すると、気持ちはずいぶんと楽になった。三千円は被災地支援ではなく、自分への免罪符だった。  テレビのなかでは津波が家々をなぎ払ったり、街が燃えたりしていたが、東京は静かだった。ぼくの部屋を取り囲む壁は、ぼくを守ってくれて、同時に、ぼくから六畳間の外を取り上げてしまった。地震のあとに津波が来て火事があって、おしまいに原子力の事故があって、日本は大変だったようだがぼくは別に大変だとは感じなかった。ただじっと家にいて、洗濯物を家の中に入れて、雨戸を閉めていた。そしてずっと、六畳の壁の内側でテレビを見ていた。きっと空を見れば、永遠に遠くの星だって見えたのに、そうはしなかった。ぼくは震災の現場を見ていない。見に行こうとは思わなかった。ただぼんやりと、千年後の教科書に、ぼくたちの世代は東日本大震災の世代として載るのかもしれないな、と思った。ぼくは、東北の生まれではないし、家族を失った被災者でもない。どこか遠くで時代が進んでいくような気がした。ぼくから日本が遠のいていくような気がした。  津波から母子が逃げるとき、母は海から離れるために山に向かって走るが、抱きかかえられた幼い子供は、母親の肩越しに、津波に飲み込まれる街を見ていた。大学の友人から、ツイッターでこんな文章が拡散されてきた。ぼくはこれを読んで、ぞっとした。その様子を想像するぼくは、いままさに津波に飲まれようとしている母子を、絶対に安全な場所から、脳内のスクリーンに映して見ていた。まるで、いつか見たハリウッド映画のような、ダイナミックな角度から。  震災で人がたくさん死んで、そのひとりひとりに大切な、最愛の人がいました、とよく聞いた。探していけば、ひとつひとつの死に、ひとつひとつの物語があるだろう。ぼくは、そんなもの、見たくはないと思う。物語とか、感動とか、そんな安っぽい尺度で、せめて人の命だけは、見たくないと思う。戦争のために死んだとか、震災のせいで死んだ、というのは、まぎれもない無駄死にだ。ぼくたちは、たくさんの死を目の当たりにすると、その総量のひとつひとつを覗きこみたい誘惑に駆られる。ぼくたちは、その誘惑に勝たなければならない気がする。死は無駄ではなかった、と納得してしまいたい誘惑に。だから、あくまで総量として、まっ黒に扱わなければならない死がきっとある。決して個別に目を凝らしてはいけない死がある。物語を排除したときに、何を見て、心を動かし、行動に移すことができるのか、あたらしいぼくたちは、そのことを考えなければならない。  このコンビニも、震災のあと数カ月は薄暗かった。電気がなかったのか、喪に服していたのか、おそらくその両方を割合を出さずにやっていたのだと思うけれど、はじめのうちは薄暗いと思っていたのも数日経つと気にならなくなった。あのころは、友人とお店に入るたびに「あれ、なんか暗くない? なんで?」とふざけて、顰蹙を買ったものだ。「震災があったからだろ」と突っ込んでほしかったのだが、だれもそんなこと、律儀に言ってくれはせず、ただ冷ややかな目で見られただけだった。  それからしばらくして、震災のこともほとんどの人が忘れたころ、街が以前と同じ明るさに戻ると、今度はどのお店も隅々までやけに明るくて、まぶしいくらいだった。きっと、これから地球はどんどんと明るくなって、孫の孫の孫くらいの代になると太陽のように輝き始めるのではないか、と思った。もしかすると、太陽も昔は真っ暗な星だったのかもしれない。それが、ぽつりぽつりと都会ができて明るくなって、煌々と明るい大都会ができて、だんだんと明るさに慣れていった結果、気が付いたらもうギラギラになりすぎていて、あんなに信じられない明るさになってしまったのかもしれない。  商品棚を見て回る。何か買おうにも、あまりお腹はすいていない。こんなときはチョコレート菓子に限る。店内のほぼ中央にある棚にはコアラのマーチが並んでいる。昔から変わらない、六角形のパッケージだ。昔から、ぼくの母はぼくがおなかの中にいた時のことを「あなたがコアラのマーチくらいの大きさだった頃には……」と表現する。母がどこからそんな表現を取ってきたのかはわからないが、遠足のおやつにコアラのマーチが入っていたりすると、自分は昔こんなに小さかったのか、と感慨深く思ったものだった。言われてみれば、コアラのマーチは完全な円ではなく、人間の四肢が広がっているような形に見える。それにしても、母親はぼくがコアラのマーチだったころからぼくのことを知っている、というのは、すごいことだ。コアラのマーチだったころの自分を知っている人には、未来永劫、頭が上がらない気がする。こちらがどんなに偉くなったとしても、「おまえ、もともとは私のお腹のなかでコアラのマーチだっただろう」と言われてしまったら、それ以上偉そうな顔はできない。タバコなんか吸っていても、「あいつ、かっこつけて指でタバコをはさんでやがる」と思われてしまう。もともとコアラのマーチで、指なんてなかったくせに、と。  ついでに言うと、ぼくはタバコを吸わないので、自信を持って言うが、タバコはかっこわるい。もちろん煙も嫌いだが、それ以前にまず、ファッションとしてのタバコが嫌いなのだ。  まず、あの持ち方が問題だ。手元をよく見てほしい。タバコを吸っている奴らは、こっそりピースしているのだ。ぼくたちはコアラのマーチだったころ、指なんてなかったし、グーで子宮を叩くことしかできなかった。それが、母親のお腹から出てくるころには物をつかめるようになっている。そしてそれからしばらくのあいだ、赤ちゃんは物をつかむことしかできない。よだれまみれのおしゃぶりも、指先でつまむことはできないから、手のひらでがっしりつかんでベトベトになっている。それがいつからか、物がつまめるようになる。お箸だって、あれは棒を二本つまんでいるのである。ところが、タバコのように指を使ってものをはさむ行為、あれは行きすぎた進化だろう。どの動物を見ても、指や爪の間にものがはさまってしまうことはあっても、人間見たく自分からはさみにいって素知らぬ顔をしている者はいない。人間だけが、ものをはさむことを覚えて、楽をしはじめたのだ。パーの手から、指と指の間隔をせまくしていけば、ものが勝手にはさまってくれることを発見してしまったのである。あの、素知らぬ顔で指のあいだに細い棒をはさんでいる姿が、一見とてつもなく洗練されているように見えるのも、そこにある。つまり、ぼくたちの心のなかにいまなお存在する猿が、あのポーズに惹かれているのである。ものをつかむ行為やつまむ行為の先にある、ものをはさむ行為に憧れるのは、ぼくたちが猿であった名残である。  猿に関してもう一つ言っておくと、タバコの先端は八〇〇度にもなる高温である。これもまた猿にとっては手の届かない憧れだった。猿はもちろん、動物たちは熱くて危ないから火を恐れる。今となっては人間は火を使いこなして、それで料理を作ったり、暖をとったりする。でも、ぼくたちの心のなかには、実は今なお火への憧れがあるのではないか。火を見ると、恐れと同時に、興奮するような気持ちになるのは、そのためだろう。どこかで火事があったときに、逃げるのではなくそれを見に行くようになったとき、すでに人類の行く末は絶滅にロックオンされたのかもしれない。  火事を見に行く。それはいったいどんな気持ちだろう、と思う。火事を見に行って死んだ、というのはあまり聞かない。もちろん、火事を見に行って、火を消す者もいる。消防士が火事を見に行くのはただ見に行くのではなくて消しに行くのである。それにくらべてぼくたちは、夏の夜に打ち上がる花火のような、あるいはキャンプファイヤーのようなものを見るつもりで、火事を見に行く。そうでなければ、何のために花火は空高く打ち上がり、キャンプファイヤーは勢いよく燃えるのだろう。  火事で家が燃えて、町が燃えても、それはただ、なにかをまっさらな状態に戻すだけなのかもしれない。物が増えていくと、それを維持したり、修理したりしなければならなくて、それにかかる費用と労力は相当なものだ。大きな波や空高く燃え上がる炎は、面倒な手続きなしで、面倒な不動産をまっさらに消去してくれる。ぼくたちもいつかは、その強大なエネルギーを使わなければならないのだ。どこまでも複雑になっていく世界には、リセットボタンを押さなければならない。それはまるでオセロのようなものだろう。石の置き場がなくなったら、盤をひっくり返さないとあたらしいゲームが始められない。そして、リセットボタンのあとで、残された者は必ず物語を用意して、どこまでもタフに絶望を受け入れる。  町が流されても、人が死んでも、いつか必ずそれでこそよかったと思える日が来る。悲劇を悲劇のままで終わらせるほど、ぼくたちは可愛くはない。いくらでも、物語というかたちで都合よく過去を振り返る強さを、ぼくたちは持っている。となれば、ぼくたちに、勇気や優しさなど必要ないのである。むしろ、踏まれれば踏まれるほど、ぼくたちは強くなる。物語を欲するあまり、破滅と破壊を望んでいるぼくたちは、感動的な物語を読むために、人の死や、共同体の破滅やダメージを望んでいるのだ。先の大戦や、震災がなければ、ぼくたちの心を震わす涙は流れただろうか。涙がぼくたちに人間らしさを思い出させ、心を綺麗に洗ってくれることがあっただろうか。ぼくたちが力強い人間であることを、たくましい心を持っていることを、これほどまで強く確認することができただろうか。  これからのぼくたちは、どうあるべきか。きっと、ぼくたちは物語を捨てなければならない。すべてをありのままに淡々と見なければならない。燃え盛る絶望の炎のなかにしか希望を見ることができないドラマチック症候群から抜け出さなければならない。ぼくたちが真の強さを手にして、新しい人類になるために。物語や感動には、白々しい目を向けなければならない。 ☆  何も買わずにコンビニから出た。迷惑な客だ。せっかくだから、コアラのマーチくらい買ってくればよかった。さて、家までまっすぐ戻れば二分とかからない。でも、やはり燃えたあとを見に行くことにした。きっと火事があったのはこのあたりに違いなかった。ここまでくれば少し歩けばわかるだろうと思って横断歩道を渡ると、角の焼鳥屋が目に入ってきた。焼鳥屋の入り口の扉はすすけて、ぶら下がったちょうちんは赤い紙が破れて、なかのワイヤーが飛び出している。カウンターの椅子は、破れて背もたれが無くなっている。窓ガラス越しに見えるレジ台は油にまみれて茶色に変色している。屋根にはブルーシートがかかっている。そうか、ここから火が出たのか、と思ったが、よく考えてみればこの小さな居酒屋はずっと前からこの調子で夜な夜な近所の酒飲みを集めているのだ。すすけて見えた扉も、毎日鶏の煙を浴び続けた結果で、破れたちょうちんは燃えたのではなく通りすがりの酔っ払いがぶつかったのだろう。レジ台だって型こそ古いがいまだに現役で、カウンターの椅子も腰のまっすぐな元気なお年寄りにはちょうどいいらしい。屋根のブルーシートもお店の看板も、前からこんなだった。よく見ればどこも燃えてなんていなかったのだ。  そんな調子で路地に入り、いつもの町並みを「燃えたんじゃないか」と思いながら歩くとどれもこれも今さっき燃えたばかりのように思えてきた。小さな材木店の倉庫も、いったい人が住んでいるのかどうかすら怪しい古い民家も、みんな触ったら手がまっくろになりそうなほどすすけている。なんだ、この町はとうに燃えてしまっていたのだ、と思った。どの家もボロボロでいまにも崩れ落ちてきそうなのである。すっかり燃えかすになってしまっている。  町内をぐるりと回っていると、小さな公園を見つけた。二畳くらいの小さな砂場があって、その後ろにはすぐフェンスがある。こんな公園が、家のすぐ近所にあるとは知らなかった。民家と線路のあいだの三角形のスペースに無理矢理つくられたような、狭くて寂しい公園だった。フェンスの向こうは、都内に向かう上り電車の線路だ。  公園から見上げたホームには、スーツ姿のおじさんがぽつんと立っていた。おじさんはホームの端っこまで歩いてきて、ひとりで寂しく電車を待っていた。日曜日の夕方のホームには、ほとんど人はいなかった。こちらから見ると、おじさんは、まるで一人でステージに立っているように見えた。じっと見つめていると、おじさんはこちらの気配に気づいたらしく、困ったように顔をしかめた。どこかで見覚えがあるような、どこにでもいそうな顔だ。おじさんはコートを着ている。たしかに少し寒くなってきた。公園の砂場には小さなお山が作られていて、むこう側とこちら側がくり抜かれて、トンネルが完成している。子供にとっては、山を作ってトンネルを掘って、はじめてそれを道と呼ぶのだろう。砂場なんて、平らにしておけばそれが一番きれいな道なのに、子供はわざわざ山を作ってその下に道を開通させる。ぼくもそういう遊びをした記憶がある。山がないと、道のつくり甲斐がないのだ。駅のむこうに落ちかけている夕陽が、あたりをオレンジ色に包んでいる。カメラを持ってくればよかった。おじさんはいつのまにかホームからいなくなっていた。  公園を出て、まっすぐ歩けばアパートのすぐ近くの道に行けると思っていると、全く見覚えのない十字路に出た。ここはどこだろう、と不思議に思って辺りを見回すと、その道は毎日通っている道だとわかった。普段であれば駅からの帰り道に西から来て北へ抜けるその道を、今日は東から西に向って歩いて来たのだ。今まで気がつかなかったが、十字路の角には大きな駐車場があって、すみのほうに大きな犬小屋があった。汚れたゴールデンレトリーバーが昼寝している。ぼくはひさしぶりにこの十字路をちゃんと自分の目で見たような気がした。いや、ぼくは今日、引っ越しをしてきた四年前のあの日以来、はじめてこの町を自分の目で見て歩くことができたのだ。  その気持ちのままてくてく歩いて、自分のアパートの前に立った。夕焼けに照らされたぼくのアパートは、すっかり焼けてしまっていた。郵便受けの部屋番号はまっ黒になって見えなくなっている。二階部分の外壁は、いたるところにヒビが走って、そのヒビに沿って黒くて太いツタが竜巻のように絡まっている。廊下には燃え尽きてしぼんだペットボトルがいくつも転がっている。いや、これらはかつて植木鉢だったような気もする。お隣さんは無事だったろうか。二階からのびてきた配水管がドロドロに溶けて変形している。よくもまあ、こんな家に四年間も住んだものだ。はやく引っ越しをしなければ、と思った。 ☆  立ち退きの日の朝。一泊だけ泊めてもらった伊藤くんの家を出て、何もないわが家に帰ってきた。管理会社のひとが午前九時に来ることになっていた。殺風景になった1Kの部屋が悲しい。大学生のぼくをあんなに力強く外界から隔離し、引きこもらせてくれた部屋が、こうして見るとなんとも貧弱だ。ベランダのアスファルトから反射した光が天井を明るく照らしている。生活の匂いが染み込んだものがなくなってしまったからなのか、部屋のなかとベランダは同じ匂いがする。天気予報から前倒しで、昨日の水曜日に春一番が吹いた。今日はまた寒くなってしまい、三月の太陽は肌をなでる程度のパワーで、朝の部屋はひたすら寒かった。床に立つと足が冷たいのでロフトに上がる梯子に腰かけた。文庫本を読んでいると九時十五分になっていた。約束は九時のはずだ。遅い。ここの大家さんは地元の小さな不動産管理会社で、入居した時はまた別の会社だったのだが、ぼくが三年生の時にその会社の社長さんが急病で死んでしまい、ぼくのアパートは別の管理会社に委託された。ぼくは新しい管理会社のおばさんがどうしても好きになれなかった。とりあえず、約束を忘れられてはいまいかと思って電話をすると、第一声「今向かってます」ときた。謝る気もないらしい。「はあ」と腑抜けた声を出してみたら、何かを察したのか小さく「ごめんなさいね」と言ってきた。ぼくは「へえ」と言って電話を切った。  九時半におばさんが来た。三十分遅れだ。応答ボタンを押す前に、インターフォンでまじまじと白黒のおばさんを眺める。小太りで眼鏡をかけている。髪の色がやたらと明るい。  ドアを開けるといきなり「今月の家賃おねがいね」と、別に親しくもないのにタメ口で話してきた。いくら相手が不躾でも家賃は払うべきなので、玄関でさっさと払った。おばさんは「それじゃ、失礼するわね」と靴を脱いで、肩かけのバッグからデジカメを取り出した。ピンク色のストラップがついていた。部屋を見て回りながら、手当たりしだいデジカメで写真を撮る。丸はだかになった部屋を乱暴に見渡して、おばさんは黙々とシャッターを切り続ける。せまくて薄暗いキッチンで、シンクに当たったフラッシュの光が乱暴に跳ね返る。ぼくはむかむかと腹が立ってきた。約束に三十分遅れられてもなんとも思わなかったが、この部屋の管理会社の人間だからといって、この部屋に四年も住んでいたぼくの前でこうも偉そうに歩きまわられると一発ぶんなぐってやりたいくらいの気持ちになった。おばさんはクローゼットの扉についた傷を見つけてとても残念そうに「あー、やっちゃったね」と言った。そうして立ち退きは終了した。敷金やクリーニング代、今月の家賃の日割といったお金の話が終わると、去り際おばさんはとても親身になりはじめて、大学を卒業してどうするの、へえ、働くのね、がんばってね、と言いたい放題を言って帰って行った。ぼくはおばさんには勝てないなあと思いながら部屋に別れを告げ、駅へ向かった。家の前の道路で猫を見かけた。猫が多い町だった。これで、引っ越しがすべて終わった。歩きながら、大学の四年間は夢のような時間だったなあ、と考えた。月並みだけど、授業にバイトに恋愛に、責任なんてなにもないまま暮らしていた。働くというのがどういうことか、全然わからないけれど、たまには火事を見に行くひまくらいあればいいと思う。駅前で、コーヒーでも飲むことにした。