乗り物

 修は冬でも夏でもパンツを履かずに寝る。朝起きて、ステテコをズボンに履き替えるときに、洗いたてのパンツを履くことになる。  同居人の有美がベッドを抜け出して一時間が経ったころ、温もりが名残惜しいベッドをあとにして、彼女が化粧をしているリビングに出た。昼からコンビニのバイトがある以外、大学の授業もなかったし、特にやることはなかったのだけれど、月曜日の朝くらいまともな時間に起きて、会社に出勤する有美を見送ったほうがいい気がしたのだ。  寝室には鏡付きの立派な化粧台があるけれど、有美は必ずリビングで化粧をする。テレビを観ながら支度をするのが日課になっているらしい。いまどきミニスカートのキャスターがいってらっしゃいを言うような古臭いエンタメ番組は下品なおじさんくらいしか観てないだろうけど、有美は広告代理店に契約社員として勤めていて、テレビCMの広告営業をしているせいで自分でもテレビを観る。  有美はもともと広告のコンサルティング会社にいたけれど、修と出会う前には転職して、今の会社で働いていた。現在は契約社員なので、正社員として残るためには上司の推薦やら適正試験やら、何重にもなった狭き門を突破しなければならないらしい。  修はおもむろにステテコを脱いで、フルチンのままテレビの前を横切った。有美は何も言わなかった。下着を入れたカラーボックスの前に立って、畳まれたパンツを手に取る。念のため、きちんと洗われているかどうか、汚れがつきやすい部分をひっくり返して確認する。もともと三枚千円で買った安物のパンツだから、汚れが目立っていたら捨てればいい。見たところ汚れもなかったのでもう一度裏返して履こうと思ったときに、やたら文字数の多いタグが目に入った。  濃色は色落ちすることがありますので、他の物とのお洗濯はお避け下さい。生成り・淡色には蛍光増白剤の入っていない洗剤をご使用下さい。長時間の水への浸漬はお避け下さい。洗濯後は速やかに形を整えて陰干しをして下さい。乾燥機のご使用はお避け下さい。汗や雨等で湿った状態、または摩擦によって、他の物に色移りする事がありますので、ご注意下さい。  修はそれを声に出して読み上げた。「濃色」は「こいいろ」、「生成り」は「なまなり」、「淡色」は「あわいろ」と読んだ。「浸漬」にいたってはどう逆立ちしても読めそうになかったので、「長時間の水に漬けることはお避け下さい」と前後を含めて意味が通るように変えて読んだ。 「これ、三枚千円のパンツにしては注文が多すぎるよね。『わたしはしょせん三枚千円のパンティです。貴方のお好きなように洗って下さいまし』くらいがちょうどいい態度だと思わない?」  修が言い切るか言い切らないかというときに、テレビのリモコンが飛んできた。  修の股間にそれが直撃しそうになって、腰を引いた体勢で慌てて両手でリモコンをキャッチした。リモコンは両手に持っていたパンツに包まれるような形になって、両手のなかに収まった。 「あんたはなんで黙っていられないんだ」  有美は叫んだ。時刻は六時四十七分だった。この部分だけを抜き取ってしまうと、先ほどの何気ない冗談だけが、有美の逆鱗に触れたように思うかもしれない。誰だったか、人生は一部を切り取れば悲劇になって、全体を俯瞰すると喜劇になる、というようなことを言ったか書いたかした人がいた。あるいは真逆だったかもしれない。  いずれにせよ、ここに至るまでの二人にはそれなりの歴史があって、よく花粉症を説明する人がコップの水が溢れるように花粉症は発症するのだと知ったような口を利くように、先ほどのセンテンスはコップに水が溢れるまでの長い長い「注ぎ」のあとに訪れた、最後の一滴に過ぎなかったのかもしれない。リモコンをキャッチした右手の親指が赤い電源ボタンをプッシュしたせいで、テレビの電源が落ちて、真っ黒になったスクリーンには突き出された修のお尻が朝の光を浴びてぼんやりと浮かんでいた。有美の角度からはそれが綺麗に見えていたはずだが、そのお尻が滑稽に見えてくるようなセンスを有美は持ち合わせていなかったので、 「出て行け」  と声をひねり出すのがやっとだった。  修は先ほどから、何が起きているのか理解できなかった。  現象とし、有美が猛烈に怒っている、ということは理解できた。二日前に生理がきたことも知っていたし、土日に休日出勤をして、月曜日の今日が大事なコンペの日で、気を張っていることも知っていた。それなのに、この理解できない感覚は、一体なんなのだろう。修は頭のなかを整理した。いっぱいいっぱいだからこそ、しょうもないパンツの話題が輝くのではないか? ストレスフルな朝、どうでもいいパンツの話題が突然降って来る、その緩急が人生を面白くするのではないか? 「あんたはつまんないだ」  今度は金切り声だった。つまんないんだ、ではなく、本当につまんないだと叫んだ。 「だいたい安物だから、いろいろ注文する必要があるんだろ。安物だから簡単に色落ちするし、型崩れもしやすい、さらに安物のパンツを買うような、お前みたいな低所得者は、概してバカで暇なやつらが多いから、すぐお客様センターに電話するだろ、クレームの。だから企業もバカ丁寧に注意書きを書かなきゃいけない。そういうバカと資本主義の追いかけっこが、間抜けなタグを生み出すんだろ。お前みたいなバカがこの世にたくさんいるせいだろ。三枚千円のパンツしか履けないような人間が、偉そうに世の中を斜めに見て面白がるな。お前が思っているほど面白くないんだ、お前の言うことは。就職活動をしたらどうだ。どうせお前には才能なんてないんだ」  有美の言うことを右から左に聞き流しながら、修は両手に絡まったリモコンとパンツをゆっくり分離させようとした。そのとき、両手のなかのリモコンが、パンツを履いていることに気がついた。「見て、リモコンがパンツ履いた」と思わずのどちんこまで出かかったけれど、上目遣いで確認した有美は顔を真っ青にして怒っていたから、さすがに黙っておくことにした。そろりそろりとリモコンからパンツを脱がせて、代わりに自分でパンツを履いた。そのスローモーな動作は、見る人がみればそれはそれでふざけているように見えるのかもしれなかったけれど、フルチンで話を続けると、相手の気を悪くさせる可能性があった。 「あんたと暮らしてると、こっちまで頭が悪くなる。わたしは昨日も一昨日も、休日返上で会社に行って、今日のコンペのために準備をしてたでしょ? あんたも知ってるよな、なぜならあんたは土日両方ともずっと家にいて、わたしが家賃を払っている部屋でごろごろ、借りてきたDVDを観ながら呑気に過ごしてたからな」  そういうと有美はカバンのポケットから、一枚の紙切れを取り出した。そのチケットは、二週間後に控えた芝居のチケットだった。劇団いもかりん第八回公演、『おもしろ警察』。演出・味田四郎、脚本・有賀修。  有美はその両端を握りしめて、右手のほうを思い切り振り下げた。半券のミシン目にそって、チケットは綺麗に二つにわかれた。それを見た修が口をすぼめると、有美は鼻息を荒くして、今度は縦と横を交えてビリビリに破いた。修はそれほどまでに取り乱している有美を見てかわいそうだと思ったけれど、チケットを払い戻しされなくてよかった、と安心もしていた。脚本である有賀にも、役者と同じようにチケットを売るノルマがあるのだ。  出勤時間が近づくにつれて、有美はおとなしくなっていた。そのうちしくしく泣きはじめて、修に「ごめんね、チケット破いたりして」と謝った。修は「いいんだよ、たかがチケットだもの」と言った。修としては心からチケットなんてただのチケットだと思ってその言葉を発したのだけれど、有美にはやたら感傷的に響いたらしく、余計に激しく嗚咽を立てて泣き始めた。 「それでは、今日も元気に行ってらっしゃい」  テレビのお姉さんが全国のおじさんを見送るころには、流れた化粧を急ピッチで再構築した有美もそれに背中を押されたようなかたちになって、玄関に向かった。靴を履いて三和土に立って、玄関マットの上に立った修に向き合っていた。 「大学生の頃、わたしの友達にも、役者志望とか、小説家志望とか、いろんなひとがいたよ」  修は黙って聞くことにした。 「でも、みんな卒業してから三年もしないうちに慌て出して、結局ろくでもない定職を見つけるのよ。修くんには、そうなってほしくないな。修くんはまだ四年生だし、いまからだったら遅くないでしょう。大卒は売り手市場だっていうし」 「考えるよ」  本当は考える気なんてないくせに、修は適当なことを言ってお茶を濁した。その言葉の響きがあまりに白々しく響いたので、慌てて「晩御飯はどうする?」と尋ねると、有美は目を丸くした。 「修くんは出て行くのよ。わたしが帰って来るまでに」  余計なことを言わなければよかった、と修は思った。 ☆  チャムスの小柄なリュックサックに横長のスーツケース、それに買い物用の折りたたみバッグ二つ、紙袋二つを抱えてコンビニにやって来た修を見て、店長の緒形総一郎は店内の客を意に介さず吹き出した。「見てください、こいつヒモしてた女に追い出されたんですよ」と言い出しそうな雰囲気だったし、実際に言ってるようなものだった。  修は心の中で、荷物の山と表情を見ただけで部屋を追い出されたことに即座に気づくこの人は、おそらく過去にヒモだった時期があるに違いないと思った。思ったけれど、指摘したら逆に開き直って、また過去の女の武勇伝を聞かされる羽目になるだろう。そんなのは緒形の思う壺だから、黙っておくことにした。 「修、お前なんだその、カワイイスーツケースは」  緒形が指摘したスーツケースは淡いピンク色で、表面にダイヤ柄のエンボス加工がしてあった。ヒールを履いた女が膝下くらいの位置で、チワワと一緒にコロコロ転がすようなスーツケースだ。ワンピースやら化粧ポーチやらが飛び出してきそうな雰囲気がある。もちろんこれは有美の私物だった。  いざ部屋を出て行くとなったとき、自分のバッグはチャムスのリュックしかないことに気がついて、仕方がないので押入れに閉まってあったスーツケースを拝借、イッセイミヤケのバオバオの紙袋とコムサイズムの紙袋もいただくことにして、それでも容量が足りなかったのでどこかの景品でもらったスーパーマリオのキャラクターが描かれた折りたたみ用の買い物袋(これとチャムスだけが修の持ち物だった)を引っ張り出してきて、成城石井デザインのおしゃれなエコ袋も無断で使わせてもらうことにしたのだ。  バックヤードに荷物を押し込んで、制服を着て出てきた修に、緒形は「お前、ここに住むなよ」と言った。 「住みませんよ」  と呆れた顔を見せながら、修は少しドキッとした。ひょっとしたら、新しい居候先が見つかるまでの二、三日でも、コンビニに無理やり居座って働きながら、さりげなく住むことができるのではないか、と考えていたからだった。コンビニはれっきとした全国チェーンの一店舗だけれど、店長の緒形のオーナー店で、二階と三階部分は独り身の緒形の居住スペースになっている。店先にはついこの間まで野良猫の「にじ」が住み着いていて、猫好きの緒形は本部からの指導に徹底抗戦し、引き取り手が見つかるまでおよそ半年間、猫の家を守り続けた。修は、自分は猫のようにはいかないのだな、自分も猫のようなものなのに、と思った。 「あの気の強そうなババアに、追い出されたんだろ?」  他人の恋人、いや元恋人のことをババアと罵るこのおじさんは、つい先日四十歳になった。午後一時まで、他のアルバイトは誰もいない。店長の緒形がほぼ二十四時間体制でシフトに入っているせいで、アルバイトは十人弱数しかいない。 「追い出されました。ババアっていうか、二十七ですけど」 「なんで追い出されたの?」 「他愛もない喧嘩ですよ」 「お前なあ、他愛もない喧嘩なら、出てこなくていいだろ」 「はあ」  修のなかでは、出て行けと言われて、出て行かないという選択肢はなかった。 「あのなあ、どこのヒモが、出て行けといわれて、はいわかりましたとノコノコ出て行くんだよ。そもそもヒモっていうのはな、出て行けと言われてはじめてヒモになるんだ」 「はじめてヒモになる?」 「そうだ。お前はまだ、ヒモ以前、つまり仮ヒモ状態に過ぎなかったんだ。仮ヒモ状態の男を飼う女の気持ちがわかるか? お前にはわからないだろうな。いいか、出て行けと言うだろ、出て行かないだろ、怒るだろ、呆れるだろ、なりゆきでセックスするだろ、許すだろ」 「緒形さん、お客さんいるときにセックスとか言うと、また本部から指導が来ますよ」 「うるせえな。な、つまり、ヒモっていうのはな、そのループに入り込んだあとのことを言うんだ。今からでも家に帰って、ヘラヘラしながら夜を待てよ。バイアグラでも飲んでさ。もう今日は帰っていいぞ」  ここで帰るとバイト代が出ないことを知っているので、修はもちろん帰らない。 「修、お前まじで別れるのか?」今度は真顔で尋ねる。 「別れますよ。というか、もう別れてますよ。出て行けって言われた時点で」 「お前も頑固だよなあ。お前の彼女、バカでかい広告屋で働いてるんだろ。給料山ほど貰ってるわけだろ」 「契約社員ですけどね」 「契約社員でもなんでもだ。いっぽうのお前を見てみろよ。大学四年生で、就職活動もせず、ちんけなコンビニでバイトして、将来の夢は作家先生だろ」 「劇作家です」 「うるせえな。ともかく、俺は修が一年生のときから知ってるだろ。いつもチケット買ってやって、気が向けば芝居も観に行ってやってるな。もちろん俺は素人だけどさ、才能はあると思うよ、お前。でもな、才能や努力だけじゃ足りないんだ。そういう意味では、あの女がいればだな」 「緒形さん、別れたものは別れたんです」  断言すると、緒形はいつものように「まあなー」と小さくつぶやいて、頭をかいた。 「お前にも不満があったんだな」  修はその質問には答えなかった。  それからしばらくの間、修は在庫の確認と補充をして、緒形はレジで月後半のシフトを作っていた。  惣菜パンの棚に向かって黙々と作業をしていたせいで、「おはようございます」という聞き慣れない女性の声がして顔を上げたとき、修は軽くめまいがした。  そこに立っていた女性は、ジーンズ生地のショートパンツを履いて、真っ白な生足を見せていた。  修はもう一度、今度ははっきりとしためまいを憶えた。女性の容姿があまりにも美しかったから、というのは陳腐すぎる表現だけれど、言葉を選ばずに表現するとそういうことになる。その女性はトイ・ストーリーのウッディみたいな黄色いチェックのシャツを着て、あろうことか完全に着こなしていた。ポニーテールにした髪は、肩甲骨の下のあたりまで、豊かな茶色に輝きながら、シンプルなヘアゴムから瀧のように落ち、一本のビダルサスーンとなってしなやかに揺らいでいた。顔立ちはやや面長で、目はイガを剥いたあとの栗のように丸く、鼻と口は消え入るように無個性だった。修はあまりの出来事に、ただほれぼれとして見つめることしかできなかった。女性はバックヤードに消えた。緒形を見るとこちらを観察するようにして、なぜか誇らしげに笑っていた。 「店長、今日だれか女の人が来てるんですか?」  奥から聞こえてくる透き通った声は、修のファンシーなスーツケースを見つけて、尋ねたらしかった。修が「それ、ぼくのだと思います」と答えると、あ、ごめんなさい、と返事が返ってきた。 「あいつ、新人の高橋実里」  緒形がわざわざ耳元で言った。  惣菜の在庫確認をしながら実里と話をしてみると、もともと別の店舗でバイトをしていた経験があるとのことだった。 「この店舗は大学からたいして離れていないのに、全然学生が来ませんね」 「そうなんです、だからバイトも気楽ですよ」  修は暗に最寄りの大学の学生であることをうかがわせるような言い方をすると、実里は「修さん、わたしと同じ大学だったんですね」と喜ばしい反応が返ってきた。 「え、実里さん何学部?」 「わたし教育学部です。三年です」 「なるほど」 「修さんは?」 「文学部。四年」 「好きな作家とかいるんですか?」  修はその質問を無視して、「実里さんは、トイ・ストーリーが好きなの?」と尋ねた。 「え?」 「だって、そのシャツ、ウッディリスペクトでしょ?」  実里は小さく「えー」と言ったきり、そのまま笑うとも怒るともいえないような宙づりの表情で修を見つめていた。修は、妙な期待をかけて実里に冗談を振ってみたことを、すでに後悔していた。美人の目の奥の輝きを、われわれ男子はどうして、ユーモアを理解してくれる機知の輝きと勘違いしてしまうのだろう?  それきり修は、主にレジに入った実里と少し距離を置くことにして、最低限の会話に留めてみた。  夕方、仕事終わりの客がまとまってやって来たとき、二人でレジに入ることになって、ふとしたときの笑顔や、客への対応なんかを見ていると、またムクムクと「この人に冗談を言って、笑いあいたい」という気持ちが沸き起こってきた。こっちが冗談を言ったところでその要点を掴んでくれないだろうし、うまく切り返しをしてくれるわけでもないと頭では理解できているのだけれど、どうしても、実里と二人でクスクスと笑いあいながら過ごす日曜の午後、場所は井之頭公園あたりを想像してしまう。いや、ひょっとすると、これからもっと仲良くなって、半年や一年くらい一緒に過ごせば、二人はツーカーの仲で冗談を言い、笑いあえる関係になるのかもしれない、そんなことまで本気で思い始める。 「おい修」  トイレの前のスペースで段ボールを潰していると、背後に緒形が立っていた。 「お前、実里のことが好きだな」  急に図星を突かれて、慌ててあたりを見回すと、実里の姿はなかった。 「そりゃ、あれだけの美人だったら、一般論としては」  よくわからない言葉が口をつく。 「残念だが、実里にはヒモできないぞ。彼女は実家暮らしだからな」  緒形はなんでもないように、他人の個人情報を流出させる。 「いくらなんでも、初対面のバイト仲間の女性んちに転がり込もうとは思ってませんよ」  それから二人でまるで変質者のように、レジに立つ実里を防犯ミラー越しに眺めた。こんなことをしていると、また新人が辞めてしまう日も近いかもしれない。 「俺の予想は、実里のほうは修に対して、悪くない印象を持ってるな」 「マジですか」 「おう。俺はな、大学生のアルバイトに囲まれてここの店長やって、もう七年になるんだぜ?」  本来であれば二十年とか三十年くらいの年月をもってそのように凄んでほしいものだが、緒形は五年目くらいからことあることに「俺はもう店長歴五年だぜ?」というようなセリフを軽々しく口にするようになった。元来大げさな人ではある。 「修はどうしてモテるんだろうな、見た感じ、ちんちくりんなのにな」 「いいですよ、考察しないでください。人の人生に感想を持たないでください」 「やっぱりあれだな、夢を持って、それに向かって頑張ってるからだろうな。なんていうか、世間の評判を顧みず」 「できれば世間の評判も獲得したいと思ってるんですけどね」 「男でも女でも結局、自分のやりたいことをがむしゃらにやってる奴に、いちばん惹かれるんだよ」  そのとき、遠田遊午が店内に入って来た。六時から入れ替わりでシフトに入るアルバイターで、たしか一浪して修と同じ大学に入ったから、実里と同じ三年生のはずだった。そして、みんなから遊午と呼ばれているこの男は、修がもっとも苦手とするタイプでもあった。  身長は平均か少し高いくらいだけれど、ナイーブそうなすらりとした体型をしていて、切れ長の細い目をしている。見るからに、女性から人気がありそうな顔立ちだ。その証拠に、レジに立った実里が遊午の存在を認めるやいなや、今日初めて心からの笑顔を見せた。  遊午のほうも、初めて実里を目にしたらしく、一瞬戸惑いの表情を見せたが、すぐに顔面をくしゃくしゃにして、修には見せたこともない人懐っこい笑顔を見せた。二人の笑顔を見ながら、ああこれは美男美女が、美男美女専用の周波数にコンマ〇・一秒でチューニングできたときにお互いに見せる笑顔だな、と思った。修は自分の存在が、彼らの外側で跳ね回っている無数のノイズのひとつに成り下がったことを自覚した。  遊午がバックヤードに消えたあとも、修の脳裏には彼の下品な笑顔が浮かんで消えず、胸がきりきりと痛むのを感じた。  修からすると、遊午はいつもお高く止まっていて、まったくもって愛嬌がない。アルバイトであっても、一緒に働く以上は助け合いが必要で、日々お互いに何かお願いをすることが出てくるものだ。そんなとき、遊午は「悪い、ちょっと手伝ってくれるかな」というようなカジュアルなお願いができない。たとえば客がたくさんレジに並んでいるとする。さっさと焦ってシグナルを送ればいいものを、焦ってヘルプを求めることが格好悪いと思っているのか、あるいは本当に無神経で無感覚なのか知らないが、客がイライラしているのを無視してぼんやりとレジを打つ。見かねたこっちがもう一台のレジを開けると、「え、なんすか」みたいな表情でこちらを向くのだ。「あ、来たんすか」みたいな。  さらに、こちらが何かミスをすると、あの鋭い目つきで、人を観察するように見ていることがある。「あらあら、何やってんですか」というような目をする。その表情がどことなく笑いを含んでいるように思えることすらあった。  修も大人なので、遊午とシフトが被るたびに、今日こそは心穏やかに、彼のいいところを気にしよう、そうすれば、きっと彼だってぼくのいいところをわかってくれるはずだ、まずは明るく元気に挨拶だ、と思って仕事に臨んでいた。しかし、結果はいつも変わらなかった。帰り道は、いつも悔しい思いをすることになった。そのうちに修は、遊午と親しくなるための努力を一切やめてしまって、お互いの印象が変わらないまま、およそ一年が経過した。  とりあえず今日は入れ違いでシフトを抜けるので、いくらか気は楽だった。実里は短い勤務時間で入っており、修と一緒に六時で上がる予定だった。  五時五十五分に遊午が出てきたので、緒形が実里に「先に上がっていいぞ」と声をかけると、実里は「あれ、まだ六時前ですけど」とどうでもいいことを口にした。  このコンビニは、出退勤の時間なんて、誰も細かく気にしてはいない。修は実里の反応を見て、きっと遊午と五分だけでも同じシフトに入っていたいんだろうと予想した。なんなら、修の方をちらちらと見て、「お前がさきに上がれよこのちんちくりん」と目線を送ってきているようにも思える。そうなると修も意地になる。「お先にどうぞ」と口にすると、実里は明らかに納得がいっていないような様子で「わかりました」と言ってスタッフ専用口に消えた。着替えと言ってもジャケットを羽織っているだけだから、ものの二分もせずに実里はウッディ姿で現れて、お疲れ様でした、と爽やかな挨拶と共に去って行った。  修が着替えを終えて店の外に出ると、駅に向かう角を曲がったところで、ウッディが立っていた。その横顔を見たときに、修は直感で「この人は遊午の連絡先が知りたいに違いない」と思った。そのために、まず僕に近付こうとしているのだ。 「どうかしましたか?」  通りざまに修が尋ねると、実里は「駅まで一緒に帰りましょう」と言う。  おかしい、と修は思った。  それに、腹が立った。この私が男性に断られるわけがないのだ、というような、自信に満ちた言い方だった。  七時から大学の学生棟で稽古があるので、歩いてそっちに行く予定だったけれど、やはり美女に「駅まで一緒に」と言われて断ることはできなかった。  並んで歩くと、実里の身長は百六十六センチの修より五センチは高かった。きっとヒールを脱いでも二センチくらいは高いだろう、と修は卑屈な計算をした。  さらに、いまの修は大量の荷物を抱えて、よろよろと歩いている。修は自分の小柄な身長についてはさほど気にしなかったけれど、荷物をたくさん持っているときに高身長の女性から送られてくる視線、つまり「あら、非力な男が荷物をいっぱい抱えているわねえ。私が代わりに持ってあげようかしら?」というような哀れみの目線が嫌いだった。おまけに汗かきだから、二人で歩いているうちに額から汗が伝って、イライラしてきた。見かねた実里が、 「荷物、持つの手伝いましょうか?」  とついに口にしたせいで、「大丈夫ですから」と返す声にも力が入った。 修は、もし自分がドゥエイン・ジョンソンだったら、と考えた。もし僕が身長一メートル九十六センチの元レスラーでハリウッド俳優のドゥエイン・ジョンソンだったなら、実里は荷物を持つのを手伝いましょうかなどと言ってきただろうか、と考えた。そんな失礼なこと言わないに決まっている。つまり、実里は僕のことを非力な男だと侮っているのだ。普段の修であればもう少しましな考え方ができたかもしれないが、朝の六時半にはベッドから出て、付き合っていた女性に出て行けと言われて大慌てで荷物をまとめて、アルバイトで六時間、休憩なしでそれなりに忙しく働いたあとだから、どうにも頭が回らなかった。朝から何も食べておらず、空腹も限界に達していた。 「修さん、脚本書いてるんですか?」 「うん」  上演まであと二週間、まだいくつかの箇所を書き直している。『おもしろ警察』というタイトルのコメディで、おもしろい言動をするとおもしろ警察に逮捕されてしまう世の中を舞台にした、意図せずしておもしろいことをしてしまった男の逃亡劇だった。  クライマックスの場面、男はプライベートジェットに乗って、生まれ育った国から逃亡するのだが、その場面がどうも盛り上がらない。そろそろ完成版の脚本を書き上げなければ、劇団いもかりんの役者たちは演技はそれなりにできるものの、セリフ覚えがとことん悪い。本来であれば一分一秒が惜しいときに、家を失うし、アルバイトにも出なければならないし、美女につきまとわれもする。なかなか世の中、うまくいかないことが多い。 「実里さんは何か書いてるの?」 「え、そんなそんな。私は何も。文章書くの苦手なんです」 「ふうん」 「特に言いたいこともないし」 「あそう」  適当に相槌を打っているうちに、空気を察したのか実里は黙るようになった。地下鉄に潜って、都営大江戸線の改札まで降りてきた。稽古に出ないなら特に行くあてもないので、新宿に出て、ジンギスカンを食べることにした。 「修さん、これからどこに行くんですか?」 「新宿。お腹すいたからジンギスカン食べる。じゃあまた」 「なにそれ。私も行っていいですか?」 「え」  これだけ気まずい空気のあとで、どうやったら食事を共にしようという勇気が芽生えるのか、修には理解ができなかった。きっとこの人は他人との会話に臨むとき、面白いとか面白くないとか、盛り上がるとか盛り上がらないとか、そういう視点では考えていないのだろう。ここまでくると、ちょっと怖くもある。 「いいけど、ジンギスカン食べるよ。お気に入りのウッディシャツがケモノ臭くなるよ」 「いいんです。わたし、ジンギスカンって食べたことないから」  食べたことないならなおのこと警戒心を持つべきではないかと思ったけれど、筋の通らない人に正論をぶつけても仕方がないので、無言で新宿西口駅まで移動して、目的のお店が満席だったのでもう一軒のお店に行った。このお店が当たりだった。臭みがなく、柔らかい肉にニンニクベースのタレが絶妙だった。カバンに匂いが移らないように、座席の下に荷物を入れる蓋つきのケースまで完備してあって、店員の愛想もよかったけれど、さすがに有美のスーツケースは入らなかった。 「どう、ジンギスカン」  気分も回復したので、およそ三十分ぶりに声をかけてみると、 「これは人肉ですよね?」  と美里が返事をした。修が実里との会話の楽しみ方を見出したのは、およそこの瞬間からだった。 「どういう意味?」 「だって、いますよね、ジンギスカンって人。世界史で習いましたよね」 「違うよ、これは羊。羊の肉」  ここにも羊の絵が描いてあるでしょ、とメニューの右上で笑っている羊のイラストを指差した。実里はすごく嫌そうな目をして、なかなか飲み込めないでいたらしい羊肉をついに吐き出した。 「ジンギスカンじゃないんですか」 「羊肉の焼肉のことを、ジンギスカンっていうんだよ」 「なんでですか」 「知らないよ、僕は。日本ジンギスカン協会の広報じゃないんだから」 「羊って食べられるんですか。羊って羊毛しかないんだと思ってました」 「もう、どういうことだよ。ふざけてるの?」 「羊ってあれですよね、綿の生き物ですよね」 「うん、ものすごくはっしょって言うと、そういう言い方もできるかもしれない」 「羊に肉ってありましたっけ?」 「あるよ!」  修だって羊に詳しいわけでもなかったし、羊に特に思い入れがあるわけではなかった。しかし、羊だって動物なのだ。ポケモンじゃないんだから、全身綿でできているとか、そんなイマジナリーなことはありえない。ちゃんと筋肉もあるはずだ。現にわれわれはそれを食しているのだ。 「あと、肉を吐き出したティッシュ、畳んでくれるかな」  咀嚼の途中で取り出した、ズタズタになってくたびれた羊肉を、どうして人前に晒して置くことができるのか、修には疑問だった。実里は本当に恥ずかしそうに顔を赤らめて、すぐに大量のティッシュで包んだ。 「すみません、動揺していたんです」 「いいよ別に。それより、羊肉だと知る前は、人肉だと思って食べてたんだね」 「まさか、そんなわけないです」 「だって、自分で言ってたじゃない。これは人肉ですよね、って」 「いや、そういう冗談だと思ってたので」 「どういうこと?」 「修さんは、もし、突然『徳川家康食べに行こう』って言われたら、どう思いますか?」 「は」 「ふざけてると思いますよね。で、連れていかれたお店でお肉が出てきて、徳川家康だと思って食べますか?」 「食べない」 「食べませんよね。わたしも同じです。ジンギスカンのお肉というノリで、普通の豚肉か牛肉を出すお店だと思っていたんです」  ようやく状況がわかってきた。彼女は本当に、ジンギスカンという食べ物を知らなかったらしい。緒形は、実里は実家に住んでいると言っていた。ということは、東京の出身なのだろう。ジンギスカンといえば北海道だろうから、生粋の東京生まれの彼女が、名前を聞いたことがなかったとしても、無理はないのかもしれない。よく考えてみれば、ジンギスカンという名前のほうが、確かにイレギュラーな感じもある。ふつう、歴史上の偉人の名前をそのまま料理の名前には持ってこない。  それから徐々に気が打ち解けた二人は、グレープフルーツサワーを二杯ずつ飲み、いい感じに出来上がり、話題はそばに置いてあったやたら可愛らしいスーツケースから、修の恋人に移った。 「もう終わったんだよ、ちょうど今朝のことだけど」 「なかなか美人だったそうじゃないですか」 「まあね」  きっと緒形が余計なことを言ったのだろう。 「なんで別れたんですか?」 「それは、やっぱり話が通じなかったからかな」 「こう言っちゃ失礼かもしれませんけど、修さんってわかりづらいですもんね」 「なにそれ、どういうこと」 「修さんって、俺のセンスについて来れない奴はクズだ、みたいなオーラが出てますもん」 「まずいね、それは」 「まずいですよ。というか、もったいないですよ。もっとわかりやすくしないと」  そう言うと、ようやく言いたいことを言い終えたというような、すっきりとした表情になった。 「ところで、実里さんはどうしてうちのコンビニのアルバイトを始めたの? 三年生から入ってくる人って、あまりいない気がするんだけど」 「サークルの先輩の、角田さんに誘われたんです」 「ああ、角田」  角田は修の同級生で、一年生のときからのアルバイト仲間だった。本名は角田秋といって、どことなく力士のような名前だけれど、本人は小柄で色白で、たしかに少しぽっちゃりしている気もするが力士ほどではない。ものすごく現実主義的な性格で、まだ公には就職活動は始まっていないのにも関わらず、すでに大手の保険会社から内定が出たとの噂もある。たしか、かなり本格的に山登りをするサークルに入っていたはずだ。その前提で実里を見ると、わりにがっしりとした体格といい、意志の強そうな目つきといい、いかにも山を登りますよ、といった感じがする。  酔っ払って、時刻は九時を回っていたので、そろそろお開きにして、修は稽古場に顔を出すことにした。今夜は、そのまま味田の家に泊めてもらうことにしよう。  味田四郎は演出家で、劇団いもかりんの名目上の主催者だ。彼は父親も著名な演出家で、大泉学園にある立派な一軒家に住んでいる。劇団いもかりんは、実は修が立ち上げた劇団だけれど、ネームバリューがなさすぎたので、演出家の息子である味田を無理やり引っ張ってきて、看板になってもらって今に至る。 「さて、お会計にしよう」  修が店員を呼ぶと、実里は困った顔をした。 「ジンギスカンって高いですか?」  その質問は修に向けられたものであったけれど、男性の店員は自分が尋ねられたと思ったらしく「ははは、そうなんすよね」といちいち返事をした。 「お会計、一万三千円になります」  修は当然、一万三千円も持ち合わせていなかった。財布を開くと千円札が二枚、それに十円以下の小銭がいくつか入っているだけだ。「あちゃあ」と情けない声を上げた。 「実里さん、ぼく二千円しかないや」 「え、わたしも三千円しかないですよ」  基本的には割り勘主義の修だったけれど、男女がどうこうというより、相手は年下の三年生なので、いくらか多めに払わなければいけない雰囲気は感じていた。感じてはいたが、やはり実里の美貌を見ていると、イライラしてくるというかむしゃくしゃしてくるというか、このまま自分が多めに払うというのは実里を異性として狙っているような感じがして、気に入らない。嫌われてもいいから、半額出せこのブス、くらいの勢いでいきたかった。別に自分は、実里に気に入られようなんてこれっぽっちも思っていないのだから。 「ちょっと行って降ろしてくるよ」 「何をですか?」 「何って、赤ちゃんじゃないよ、この場合。ATMでお金だよ、キャッシュ」 「あ、ありがとうございます」 「ありがとうございますっていうか、自分も降ろしに行かなきゃだめだよ」 「え、まじですか」 「まじでしょう。だって三千円しかないんでしょう?」 「でも、二人で行くのはまずくないですか」  言われてみれば、たしかにそうだ。二人で行くと食い逃げみたくなる。 「じゃあ、あとでお金降ろしてよ。六千円でいいから」 「わかりましたよ」  修がチャムスを抱えて、紙袋とショッピングバッグとスーツケースを持って店を出ようとすると、実里が「ちょっと」と怒鳴り声を上げた。 「食い逃げしようとしてるでしょ」  酔っ払ったせいだろうが、乱暴な声色をつかったものだから、周りの客が驚いて修を見る。 「いや、念の為に持ち歩くだけだよ」 「置いて行けばいいじゃないですか」 「置いて行くと、君が盗むかもしれないだろ」  実里はなんで私が、と驚いた顔を見せた。 「盗むわけないでしょう。バカにするのもいい加減にしてください」 「バカにしてるわけじゃない。それを言うなら、君だって僕のことを疑っただろう。お金を降ろさないで、食い逃げするかもしれないって」  実里は言葉に詰まった。そこですかさず、修は「すぐそのこのゆうちょだから」と言ってお店を出た。  その夜、実里がいくら待っても、修は戻って来なかった。  修が九時半を少し過ぎたころに稽古場に着くと、味田が役者に灰皿を投げていた。もちろん、本物の灰皿を投げると危ないし、鏡に当たって割れたりすると修理代を誰が出すのかという問題になるので、この場合の灰皿は灰皿の形をしたクッションだった。いつだったか「すべからく演出家は灰皿を投げるものだ」という間違ったイメージを持った役者がいて、「これを投げてください」とどこかで買ってきたらしいジョークグッズのクッション灰皿を味田に渡した。それからというもの、味田は面白半分で灰皿をぽいぽい投げたり、セリフ覚えが悪い役者に助走をつけてマジで投げたり、三年間のうちにいろいろな使用方法をマスターした。いまではただひたすらに、上半身を鞭のように使い、椅子に座ったままの姿勢で強力な球を放るようになった。 「腹が痛い演技をするときに、本当に腹が痛いような演技をしなくていいんだよ。観ている人が、この人は腹が痛いんだな、ってことが記号として分かればいいわけだろ? 黙って患部を押さえとけよ。今回の芝居のテーマはなんだ、お前の腹の痛みか?」  味田は入り口の扉の横に立った修の存在に気づかない様子で、同級生の太田を怒鳴りつけていた。この太田という女優がくせもので、これまでの全公演を唯一皆勤で出演しているくせに、いまだに信じられないような大根芝居をする。モアイ像のような顔をしているので、これまで脚本上支障がなければモアイ像を無理やり登場させて彼女の役にして来たけれど、今回はどうしてもモアイ像が出る隙がないので、はじめて人間の役を与えることになった。しかしこの調子では、すぐにでも石像に逆戻りするだろう。太田は劇団員のなかに友達もいないし、打ち上げにも来ないけれど、ノルマとして与えられたチケットは誰よりも先に売りさばく。よくわからない存在だけれど、人手はいつだって足りないので、黙って出てくれるだけでありがたいし、本人はいつだって楽しそうにしている。  稽古が終わって、味田とラーメンを食べに行くことにした。馴染みのつけ麺の店が閉店していたので、駅まで歩いて昔からある有名店に入った。席に着くなり、味田が顔をしかめて「修、お前ジンギスカン食べただろ」と尋ねた。 「ばれた?」 「お前、金輪際、稽古来ないでジンギスカン食べるな」 「ごめん」  修はもともと小食で、ジンギスカンを山ほど食べてサワーを二杯飲んだあとだったけれど、つけ麺なら食べられる自信があった。つけ麺は修のいちばんの大好物で、唯一胃の限界を超えてもなおおいしく食べられる料理だった。味田も普段はつけ麺を注文するのだけれど、珍しく食券機で普通のラーメンを頼んだ。 「修、書き直しは順調か?」 「あれからまだ二日しか経ってないよ。今日は朝からいろいろあって、時間が取れてないんだ」  味田は「そうか」とつぶやいて、チケットを店員に渡して「全部普通で」と注文をつけた。麺の硬さや油の量を選べるシステムで、修も小さく頷きながら食券を渡した。同じく全部普通でお願いします、というニュアンスが伝わるかと思ったけれど、店員は「いかがしましょう」と聞き直してきたので、「全部普通でお願いします」と声に出して伝えた。 「実はな、稽古がかなりピリピリしてる」  カウンターで隣に座った味田は、修を見向きもせずに言った。 「いつものことじゃないの」 「修、俺はこれまで、お前の脚本に文句を言ったことはないよな。それは、お前の脚本を信頼しているし、面白いからだ。信頼を前提に言うが、今回に関しては、意味のわかるものを書いてくれ」 「意味のわかるもの」  修の箸が止まる。 「今回は、わりと意味がわかる話になってると思うけどな」  味田は黙っている。 「それに、話の支離滅裂さでいくと、べつに今回に限ったことではないと思うけど」  味田は神経質そうに顎に手を置いて、何か考えているようだった。いつまでもラーメンが届かず、茹で時間を間違えているんじゃないかというくらい長い時間が経って、味田がようやく口を開いた。 「これは俺の予想だけれど、今回の脚本は、あと少しでとてもよくなりそうな感じがする」  これまで味田から文句を言われたこともなければ、何か褒められたこともなかったな、と修は気づいた。 「意味がわからないのが悪いって言ってるんじゃないぜ。意味がわからなくても面白いものはある。でも、今回の『おもしろ警察』は、意味がわかったほうがいい気がする。これは俺の勘でもあるし、いもかりんのみんなの勘でもある、と思う」  修のつけ麺と、味田のラーメンが同時に届いた。 「クライマックスの、おもしろ警察に追われるシーンがあるだろ」  おもしろ警察は、おもしろい警察という意味ではなく、おもしろい者を逮捕する警察、という意味でのおもしろ警察だ。味田が言っているのは、そのおもしろ警察が主人公の歩を飛行場に追い詰めて、歩はプライベートジェットに乗っておもしろ警察が権力を握っているおもしろ法治国家から逃げ出す、物語の最後のシーンのことだ。その場面が、感動的な展開になりそうなのに、そのくせ特に感動もなく過ぎてしまうのが、妙な感じがするのだ、と味田は言った。中途半端な盛り上がりを持ってくるならば、いっそのことこれまでの脚本のように、支離滅裂に徹したほうがいい、と言う。 「どうすればいいんだろう?」  修が尋ねると、「それを考えるのがお前の仕事だ」と味田は笑った。  食べ終えて店を出ると、外は風が冷たかった。味田は「俺もつけ麺にすればよかった」と珍しく過ぎたことを後悔していた。山手線の駅の、人気の少ないほうの出口に向かって歩く。これから池袋まで行って、西武池袋線に乗る。許可を得る前に勝手にそのつもりでいたことを思い出して、 「なあ、今夜、泊めてもらってもいいかな?」  と念のために尋ねる。 「ああ」  そう言ったきり黙っていたけれど、二台並んだ券売機の前まで来て、遊午は唐突に「悪い」と謝った。 「部屋が、散らかってるし、最近親がうるさいんだ。今日は勘弁してくれ」  修は「もちろん」と返事をした。充電の切れかかったスマートフォンを見ると、二十二時五十五分だった。  改札を抜けた味田は、エスカレーターを小走りで上がって行った。とくに電車が来ている様子でもなかったけれど、終電の時刻が近づいているのかもしれなかった。  修は頭の中で財布を開いて、千円札一枚と百円玉が二枚、あとは小銭たちをぼんやりと数え上げた。有美のアパートが脳裏をよぎる。問題は、彼女がコンペに勝ったかどうか、その一点に絞られている。コンペに勝って上機嫌の彼女が修を拒否するとは考えられないし、コンペに負けて苛立ちをさらに募らせた彼女が修を受け入れるというのも考えにくい。コンビニに戻って今夜一晩だけでも泊めてもらえないか、緒形に頼み込むことも考えてみた。しかし、今夜は午前二時まで遊午が勤務していることをすぐに思い出した。できることなら、遊午の前で恥をかきたくなかった。  改札をはさんで券売機の反対側の一角に、緑色のコインロッカーがあった。ずいぶん古い型のようで、容量を確認するため二百円の小さなボックスに手をかけると、薄くて軽い扉は吹き飛びそうな勢いで開いた。カカオの量が少ないチョコレートが準チョコレートと呼ばれるように、そのロッカーはもはや準コインロッカーと呼ばれてもいいくらいロッカーらしい強度が足りていなかった。  自販機で百円の水を買って千円札を崩し、六百円の大きなボックスに不必要な荷物を預けようとしたけれど、百円玉しか受け付けてくれなかったので、今度は五百円玉でもう一度水を買って、百円玉を八枚手に入れることに成功した。  そのうち六枚を使って大量の荷物を押し込むと、リュックひとつで身軽になったが、ついに財布の中身は二百円と小銭たちになってしまった。水も二本もいらないので、一本はロッカーの中に入れたところで、修は自分が自暴自棄な行動を取っているような気がした。いくら荷物が重いからって、六百円を払って預ける必要はなかったかもしれないと思った。それでも修は疲れていたし、大量の荷物を抱えて歩き回るのは嫌だったし、銀行の口座にはいくらかのお金が残っていた。年上の女性のヒモ予備軍だったからといって、銀行の預金が一円もないというわけではなかった。  翌朝、有美の部屋で目が覚めると、まだ朝の七時半だというのに家の中には誰もいなかった。コンペに勝った翌日も早朝出勤をしなければならないというのは、もはや彼女が何を楽しみに生きているのか、理解不能だった。 緒形にコンビニを休みたいと連絡を入れて、副都心線から新宿で乗り換えて、吉祥寺に出た。電話で緒形はいつものように、やすやすと休みの許可を出してくれた。修がざっと計算したところによると、緒形は週に百五十時間くらいシフトに入っていた。彼だけでもあのコンビニは回せるのかもしれないが、おしゃべりが好きだから、わざわざ大学生を雇っているのだろう。  サンロードの北口でバスを降りて、駅の北口に向けてアーケードを歩いた。途中で友達がバイトしている回転寿司のお店を外から見たけれど、彼が働いている様子はなかった。  駅を越えて、井の頭公園を抜けた先に、二年生のころによく通った喫茶店がある。二十分も歩けば着くだろうその喫茶店は、狭い店内にほどよい感じで喫煙席と禁煙席が入り混じっていて、修はタバコを吸わないけれど、副流煙がいい雰囲気を醸し出していてお気に入りだった。  高架下を抜けて公園口のエリアに出て、マルイの脇を歩いていると、「修さん」と声をかけられた。振り返ると、見たことのある顔が立っていた。遠田遊午だった。 コンビニの外で遊午に会うのは初めてのことで、太陽に照らされた遊午は、まだ四月だというのに強烈に白飛びして、頼りなく見えた。この男には、コンビニの衛生的なセラミックタイルのうえがいちばん似合うのだ、と意地悪を思った。 「今日、バイトじゃなかったでしたっけ」 「脚本の直しをするんだ」  修はなるべくシンプルに返事をすることにした。 「そういえば、実里さん、怒ってましたよ」  いたずらな笑顔を見せて遊午が言う。 「昨日バイトにジンギスカンのレシート持ってきて、緒形さんに修さんの給料から六千五百円、天引きするように頼んでました」 「うそ」 「ほんとですよ。そんなことができるのかどうか、知らないですけど」 「一緒に歩こうか。公園まで」 「はい。いい天気ですね」  アジアン雑貨の店から若い女性が出てきて、遊午を二度見する。遊午は気にかけない様子で空を見ている。修は以前同じ道を歩いた時に、たしか進行方向左側のビルの二階におしゃれな古着屋があったことを思い出して、キョロキョロしている。  あっという間に公園の入り口に行き当たって、あの古着屋は潰れてしまったのだと勝手に納得して、短い階段を降りた。木漏れ日の中に立った大道芸人のまわりに、ぽつぽつと人が集まっているのが見えた。 「あの人、むかし鬱だったんだって」  三十代半ばくらいの、メガネをかけてジャグリングをしている男を指差して修が言うと、遊午は「えっ」と声を出して修を見た。 「前に自己紹介してたんだよ。集まった聴衆に向けて。これから笑ってもらおうという人がそんなこと発表して、何の得があるのか知らないけど」 「実はぼく、吉祥寺って来たの初めてなんです」  遊午がこれまで吉祥寺に訪れたことが一度もないと聞いて、修は心底驚いた。東京に、吉祥寺に来たことがないなんていう大学生がいるとは、知らなかった。 「住んでるの、どこだっけ?」 「大学の近くです。コンビニも、歩いて三分くらいです」  それなら、歩いてでも新宿に出て、中央線に乗ってしまえば、吉祥寺なんてあっという間に着くはずだ。 「それで、今日は吉祥寺まで何しに来たの」  修が尋ねると、遊午は急に黙ってしまった。まばたきが多くなって、池に浮かんだスワンボートを見ている。 「なにをしに、というわけではないんですけど、フラフラと。スワンボートに乗ろうかな、なんて」 「ひとりで?」 「いや、まだ乗ると決めたわけではないんですよ。人が多かったら危ないし」 「なんだか驚いたなあ。遊午くんがひとりでスワンボートに乗るような男だとは思ってなかったよ」 「友達いないんですよ」  そう言ったきり遊午は、桟橋の手すりに捕まって、上半身を乗り出した。うしろから見ていた遊午は、そのままひっくり返って池に落ちるんじゃないかと心配した。 「ぼく、乗り物が嫌いなんです。乗り物には乗らないって決めてるんです」  スワンボートが乗り物の部類に入るのか、修は一瞬ためらったけれど、たしかに乗り物であることには違いないと思い直した。 「乗り物には乗らないって決めてるなら、その誓いをさ、なにも井の頭公園のスワンボートで破ることはないんじゃないの。三十分かけて、もとの乗り場に戻ってくるだけだよ」 「ぼく、泳ぎは得意なんです」 「へえ」  修は、これまで遊午がコンビニで不愛想を貫いていた理由がわかった気がした。きっと純粋に、他人との会話が苦手なのだろう。 「乗り物に乗らないって言ってもさ、今日ここまで電車に乗って来たんでしょう?」 「いえ、歩いて来ました」 「新宿から、ここまで?」 「はい。二時間くらいですよ」 「そんな早く着くものかな。うーん、二時間でも、きついでしょう」 「そうですね。歩くの苦手なんですよね」 「乗り物も苦手で、歩くのも苦手なら、だいぶしんどいね、人生」 「しんどいですよ。だからそろそろ、乗り物に乗る練習をしようと思ってるんです」  スワンボートが、乗り物に乗る練習に適した乗り物なのかどうか、修にはよくわからなかった。 「一緒に乗る?」  ためらいながらも提案すると、遊午は「いや、まだ乗るって決めたわけじゃないんで」と渋った。 「いじらしいなあ。無理強いはしないけどさ」 「ありがとうございます。誘っていただいて嬉しいです」 「女の子を誘うよりも緊張したよ」 「ぼく、乗り物に乗れないせいで、誰かと一緒に外に出かけたことがほとんどないんです。だから今日、こんな遠い場所で修さんにたまたま会えて、すごく嬉しかったです」 「乗り物に乗れないっていうのは、どのくらい乗れないの?」 「中学一年生の頃から、ずっと乗っていません」 「どのくらいっていうのは、つまり、程度のことだけど」 「ああ、まったく乗れません。自動車にも乗れないし、自転車にも乗れません。飛行機にも、船にも。スワンボートにも」 「一輪車にも?」 「乗れません」 「竹馬は?」 「竹馬は、うーん、乗れますね。あ、いや、乗ったことないんでいきなりは難しいと思いますけど、乗ろうと思えば乗れます、多分」 「遊午くん、出身はどこなんだっけ」  先ほどから、遊午くん、と下の名前を気軽に呼んでみることにはとりあえず成功している。 「出身は鹿児島です」 「へえ。遠いね。歩いて来たの?」 「はい」 「東京まで?」 「はい、東京まで。三ヶ月かけて」 「マジで言ってる?」 「マジです。おかげで入学式に間に合わなくて、一年前期の必修単位を落としたんです。それで、誰よりも早く留年が確定しました」  鹿児島から東京まで、歩いて三ヶ月で到着できるものなのだろうか。そもそも、九州と本州の間が陸続きになっているのか、歩いて渡れる橋があるのかも修にはわからなかった。 「生まれたのが北海道じゃなくてよかったです。函館と青森をつなぐ青函トンネルって、歩いて渡れないんですよ」  遊午の語り口によると、どうやら九州と本州の間は歩いて渡ることができるらしい。 「どうして乗れないの?」  修が聞くと、遊午は「その質問は、難しいですね」と苦笑いした。 「たぶん最初は、親の車に乗るのが嫌だったんだと思います。乗り物に乗って移動すると、頭の整理が追いつかなくなるんです。時間の感覚が」 「場所の感覚じゃなくて?」 「場所というより、時間です。体内時計が狂っちゃうんです。眠れなかったり、具合が悪くなったりするんです」  そんな症状があることを、修は初めて知った。  それから二人は井の頭公園をぐるぐると二周して、お昼前になって解散した。修は脚本の書き直しをするために、喫茶店に向かった。新しいアイデアが浮かんだような気がして、自然と早足になった。