約束の新宿駅に、みはるは予定より三十分早く到着した。待ち合わせ場所は特に決めていなかったけれど、友人はJRで来るとわかっていたので、東口の改札で待つことにした。良さそうなランチのお店を調べてきたので、どこに行くかは二人で話し合って決めようと思っていた。 木曜日の十一時半。こんなに人が少ない新宿駅も珍しいな、とみはるは思った。そろって淡い色のカーディガンを羽織った、ロングスカートとスキニーパンツの女性が三人、談笑しながら目の前を通り過ぎた。彼女たちも、きっとこれからランチなのだろう。そのとき、スーツ姿の痩せた男性が、改札から出てきた。 地上に向かう階段を、一段跳ばしで昇っていく。黒い通勤カバンとは別に、同じくらいの大きさのメッシュ生地のカバンを持っていて、そこから太いアダプターのコードがはみ出ていた。えんじ色のマフラーを首に巻こうとして、三月の風に吹かれて苦戦している。きっと彼は営業マンで、営業先にプロジェクターを持って行くんだな、と思った。みはるも外回りの仕事をしていたことがあるので、想像がついた。ラップトップの画面を覗き込んでもらうのにも限界があるし、お客さんがいつもプロジェクター付きの会議室を用意してくれるとは限らない。 携帯電話の時計を見ると、十一時四十分になっていた。みはると同じように誰かを待っているらしい人たちが、ちらほらと目につきはじめた。十一時四十分という中途半端な時間に待ち合わせ場所にいるこの人たちは、自分と同じように十二時の待ち合わせに早く到着した人たちだろうか。 黒い縁の眼鏡をかけた大学生の男の子、制服姿の女子高生。帽子を深くかぶって、山登りに行くような大きなリュックサックを背負っている壮年の男性。そして自分は、八ヶ月目を迎えたお腹の大きな妊婦で、水色のワンピースを着ている。ここにいる、待ち合わせ場所に二十分も早く来るわれわれは、鉄道のパンフレットにそのまま載ってもおかしくないような、良き市民の見本市みたいだとみはるは思った。大学生と女子高生はスマートフォンを見ている。リュックサックの男性は、ホームからとても大切な人が降りて来るのを待っているみたいで、じっと改札の向こうを見つめている。 みはるはお腹をさすりながら、周りの様子を観察していた。すると、デジタル広告が埋め込まれた柱の反対側に立つ男性の、肩掛けのバッグが目に入った。みはるに見えるのは後ろ姿だけで、バッグの半分とベージュのチノパン以外は、横顔もわからない。それでもみはるは、その格好に見覚えがあった。川奈くんだ、とみはるは思った。 みはると川奈くんは同じ年で、二十歳の頃に三年間、恋人として付き合っていた。大学は別だったが、みはるが通っていた女子大と、川奈くんの大学は近くにあったので、ふたりで部屋を借りて同棲もしていた。みはるにとって家族以外の誰かと一緒に暮らしたのは、川奈くんが初めてだった。 みはるはうしろ姿を観察しながら、別れてから何年ものあいだ、川奈くんのことをすっかり忘れていたことに気がついた。数えてみると、川奈くんと別れて七年が経っていた。七年間、それほどたくさんの人と付き合ってきたわけでもないのに、不思議なことに、川奈くんのことはほとんど思い出さなかった。ほとんどというより、まったく思い出さなかったと言ったほうがいいかもしれない。ほかの男に対しては、憎んでいるやつほど、ふとしたきっかけで思い出してしまい、無性に腹が立つことが多い。川奈くんのことはまったく憎んでおらず、むしろ好意的に思っているからこそ、これまでまったく思い出さなかったのかもしれない。ひょっとしたら、今日ここで彼の後ろ姿を見ることがなければ、わたしは川奈くんのことをもう二度と思い出すことはなかったのではないか、と思い、不思議な感じがした。 心臓が速く打ちはじめていた。 みはるは川奈くんと付き合っていた三年間のことを考えた。 大学三年生から、社会人一年目までの三年間だ。思い返してみると、なかなか重要な三年間をふたりで過ごしたことになる。就職活動を始めて、社会人生活が軌道に乗るまでの三年間だ。二人が付き合っているあいだに、みはるは大学を卒業して広告代理店に就職した。川奈くんはアルバイトをしていたフランス料理店でウェイターの仕事をフルタイムで始めるようになった。みはるは就職活動のために、大学生活のほとんど半分を捧げた。精神的にはかなり大変な思いをした。 みはるの知る限り、就職にあたって、大学生には二通りの反応があった。ひとつは、就職活動なんてつまらない、大人たちの社会の欺瞞だといって、あまり手間をかけずに適当に就職していく人たち。もうひとつは、就職活動はたしかに疑問点ばかりだけど、やるからにはしっかりやろう、という人たちだった。みはるは後者で、結局どちらも精神的に追い詰められることになるのだけれど、川奈くんはどちらとも違っていた。なにしろ彼は、働くとかキャリアとかいうことについて、本当になにも考えていないようだった。すっからかんなのだ。毎日のようにリクルートスーツを着て、エントリーシートだ、説明会だ、面接だと言っているみはるに対して、川奈くんは何も言わなかった。そんなに頑張らなくてもいいのに、とたしなめることもなかったし、ここが踏ん張りどころだよ、と勇気づけることもなかった。そして彼自身は、とくに将来のプランというのも口に出さないまま、おそらくスーツなんて一度も着ないまま、卒業した。 そんな二人のことだから、正直に言って、当時のことを振り返ると、川奈くんのことよりも自分の苦労ばかり思い出された。ただ、みはるにとって、そのころに苦労したことは、今となっては決して無駄ではなかったと感じられた。もし大学生に戻れるなら、自分はまた同じように就職活動に精を出すだろう、とみはるは思った。 ところで川奈くんは、新卒一括採用の制度に文句を言うわけでもなく、そんなものに一度も興味を抱くことなく卒業して、卒業式の次の日からウェイターの仕事をフルタイムにして働きはじめた。それに関して、みはるに対しても特に相談はなかった。みはるは何度となく、将来どうするのと川奈くんに聞いたが、川奈くんはどうしようねえ、とりあえずアルバイトを続けるかな、とにこにこするだけで取り合わなかった。それでもみはるは、別に怒ったりしなかった。なにしろ川奈くんのことが好きだったのだ。一緒にいられるだけでよかった。ただ、それも少しずつ変わっていって、結局二人は別れてしまった。それはまた就職活動とは別の話のような気もするし、すれ違いの発端は、仕事への価値観の違いにあったような気もする。 みはるは川奈くんの肩掛けのバッグを見つめながら、たくさんのことを思い出した。別れて七年も経つのに、まだ同じバッグを使っているということにも驚いた。子どもっぽいうえに汚れていたので、みはるが何かの記念日に新しいバッグを買ってあげたのだ。買ったその日はよろこんで、手にとってしげしげと眺めているのだけれど、次の日どこかへ一緒に出かけるとまたいつもの肩掛けに戻っている。文句をいうと、「やっぱりこっちのほうが使い慣れてて」とニコニコしながらいう。川奈くんは、気を遣うということができないのだ。みはるがすねたこともたくさんあった。 そうやってしばらく考えているうちに、二人で行った場所や、記念日のプレゼント、二人で同棲するために部屋を探したこと、そういった思い出が頭の中にありありと浮かんできた。川奈くんがいまどうしているのか、聞いてみたい、知りたいという気持ちが強く湧き上がってきた。これまで付き合ってきた他の男性に対する気持ちとは、まったく違う気持ちだった。基本的に、別れ方はどうであれ、過去に付き合った男性については顔も見たくなかったし、たまたま街で会ったり、同窓会で会ったりした時には、絶対に話なんてしたくなかった。どういうわけか、彼らの悪いところだけが、呪いのシンボルみたいに脳裏に刻まれていて、顔を見るだけで腹が立ってくる。そういう男たちに関しては、できれば存在しないものとして扱いたかった。ただ川奈くんに対しては、そういう気持ちとはまったく違っていた。なにせ、もう七年間ものあいだ、みはるは川奈くんのことをほとんど完全に忘れていたのだ。まず、川奈くんはいま、どういう三十歳になっているのだろうという好奇心があった。どんな仕事をして、どんな家庭を持っているのだろう。そして、どうして自分は、彼のことをすっかり忘れていたんだろう。 みはるは声をかけるべきか迷った。昔の恋人を街で見かけて、自分から声をかける。そんなこと、正気の自分が取る行動だとは思えなかった。けれど、ここで声をかけなければ、もしかするともう二度と会えないかもしれない。会えないどころか、また自分は川奈くんのことを忘れてしまうのではないか、そんな妙な予感があった。今度こそ本当に彼のことを完全に忘れてしまって、街で彼の汚れたショルダーバッグを見かけても、彼と自分が同棲までした関係であったことを、思い出すことすらできないかもしれない。そう考えると、変な気持ちがして、とても胸が苦しくなった。なんとしてでも彼に声をかけて、少しでもいいから話がしたいと思った。 時計を見ると、十一時五十七分だった。向こうにもこちらにも、いつ待ち合わせ相手が現れてもおかしくない。ひょっとすると、川奈くんは恋人を待っているのかもしれない。そうだとしたら、こちらから声をかけるのはやはりやめておいた方がいいだろう。川奈くんの恋人に、妙な誤解を与えてしまっては申し訳ない。みはるはこれから、中学時代の同級生と、久しぶりに会って話をすることになっていた。それなら、すばやく声をかけて連絡先を交換するのはどうか。でもその場合、きちんと準備をして、後日あらためて会うことになる。七年前に別れた男女が、きちんと準備をして、後日あらためて会うことなんてできるだろうか。こっちは結婚しているし、ましてやお腹の中に子供もいる。向こうにも向こうの事情があるだろう。 お腹が縮むような感覚があった。自分は妊婦の身で、一体何を考えているのだ、と何度か反芻した。 女子高生はまったく同じ制服を着た別の女子高生と合流して、ルミネの地下へ消えた。大学生らしき男性はいつの間にかいなくなっていた。リュックサックを背負った壮年の男性は、なにかを思い出したように小田急線の改札の方へ歩いて行った。 十二時七分。改札前にはみはると川奈くんだけになっていた。みはるは友人が現れないことを祈った。何かがおかしい。やけに静かだ。平日の十二時に、新宿東口の改札に誰もいないなんて、そんなことはないだろうと思った。改札の端で外国人や出口を間違った乗客の列をさばいているはずの係員もいない。改札の反対側にあるアパレルショップの店員もいなくなって、遠くに見える小田急線の改札も無人だった。頭上に何十本とあるはずのレールに走る電車の音も消えていた。そのとき、川奈くんが柱の陰から、こちら側を向いた。みはると目があう。みはるは思わず、耳の横くらいの高さまで手をあげた。川奈くんはみはるの顔を見て、少しだけ考えて、すぐに笑った。「みはる」と言って、車掌みたいにみはるの顔を指差で確認した。 「おなか、大きくなったね」 テーブルを挟んで反対側に座った川奈くんは、まるでみはるの妊娠初期を知っているような口ぶりで、みはるはおかしくて笑った。妊娠していることに言及しないでお腹が大きくなったとだけ言うと、ただ単に太っただけみたいではないか。それとも川奈くんは、みはるが本当に太っただけだと思っているのだろうか。 川奈くんは仕事の打ち合わせが相手の都合でキャンセルになって、急に暇になってしまったらしかった。駅の改札にも電車から降りてきた人があふれてきたので、どこか場所を移して話をすることになった。ふたりはなんとなく歩き始めた。歩きながら、川奈くんはちゃんと仕事を持って働いているのだな、とみはるは安心した。フランス料理店のウェイターが、新宿駅の改札で仕事の相手と待ち合わせをすることはあまりないだろうから、きっとなにか別の仕事についているはずだ。服装は大学に授業を受けに行くときと何も変わっていないようだった。いったい、どんな仕事をしているのやら。 歌舞伎町に、ふたりの思い出の喫茶店があった。いちどはアルタ前を通って西武新宿へ向かったけれど、場所を確認するためにホームページを見てみると完全分煙になっていないことがわかったので、地下道を通って西口に移動した。西口をしばらくうろうろしたあとで、チェーン店のコーヒーショップに入った。喫煙席は透明なガラスの仕切りの中に閉じ込められていて、煙は一ミリも漏れていなかった。 「それって大丈夫なの?」 川奈くんがみはるのコーヒーを指差して聞いた。川奈くんの喋る言葉には主語がないことが多い。まるで犯人に鎌をかける推理ドラマの探偵みたいだ。久しぶりに飲んだコーヒーは、やや酸っぱく感じたが、おいしかった。みはるはベーグルを注文して、オーブンで温めてもらった。川奈くんは食べ物は注文せず、紅茶を飲んでいた。一緒に住んでいたころはコーヒーばかり飲んでいたのに、とみはるは思った。いろんなことが変わっていくのだ。 「大丈夫って、何が」 「いや、それだよそれ。コーヒー」 「あ、これね。デカフェだから大丈夫」 デカフェ、という言葉が聞き慣れないようで、川奈くんはレジの方を見た。デカフェが何なのか知りたいようだった。 「結婚したんだね」 川奈くんは、みはるの右手薬指に視線を移して聞いた。みはるは左利きなので、結婚指輪を右手につけていた。 「結婚した。二十七のときに」 「ふうん。何してるひとと?」 「銀行マン」 「へえ。銀行員ってこと?」 「うん」 「銀行員ってやっぱり眼鏡かけてる?」 眼鏡かけてるかどうかは人によるでしょう、とみはるは笑った。川奈くんもそれに対しては何も答えずに笑った。たしかに夫は眼鏡をかけている、とみはるは思った。だが、今の時代、眼鏡なんてほとんどの人がかけている。 「仕事は何してるの?」 「わたし?」 「うん。旦那さんは銀行員でしょ。今聞いたよ」 「わたしはスマートフォンのゲーム作ってる会社で、広告の仕事をしてた」 「スマートフォン? 最初に入った、なんとかっていう広告代理店で?」 「広告会社は辞めた。五年働いて、自分のクライアントだった、ゲーム作ってる会社に転職した。妊娠したんで、それも辞めたけど」 「辞めた? 妊娠したから?」 川奈くんは驚いたように言った。 「そうだね」 「もったいないなあ。せっかくいい会社に入ったんだから、妊娠したからって辞める必要なんてないように思えるけどな」 川奈くんは正論を言った。みはるは、川奈くんの口からそういう言葉が出て来たことに驚いた。仕事なんて辞めていいんだ、たいして価値のないことだよ、というふうに言われるんじゃないかと、勝手に予測していたからだ。 「会社のひとにも、ぜひ続けてほしいって言われてた。お世辞かもしれないけど、まあ、一応引き抜かれて入って、仕事に関してはそれなりにやってたと思う。わたしがやってた仕事は、明文化されていない業界のルールが大切で、すぐに代わりが見つかるわけでもないからね。ただ、うちは旦那がそれなりに稼いでくれるし、いろいろと家庭のなかで、やらなくちゃいけないこともあるから」 ふうん、そういうものなのか、と川奈くんは言った。みはるはうんうん、とうなづいて見せてあとは黙っておいた。仕事を辞めたのは、周りの環境というよりも、自分のせいだ、とみはるは思った。生まれてくる子どものことを考えると、夫の稼ぎが十分すぎるとは言えなかった。みはるも働いて、夫婦共働きのほうがいいのは明白だった。夫も、みはるには仕事を辞めないように、かなりしつこくお願いをしていた。とりあえず産休を取って、戻る気になれないんだったら辞めてしまえばいいじゃないか、と言った。実のところ、みはるの収入ほうが、夫の収入よりも多かった。お互いの給料をお互いが直接的には把握しないシステムを作っていたが、みはるの夫も、そのことに勘付いている様子だった。 とにかく、みはるの決心は固かった。仕事を辞める決心をしたというより、これまで何よりも仕事優先で取り組んできた彼女のなかの情熱が、いつの間にか消えてしまったのが原因だった。みはるは大学を出て、新卒で大きな広告代理店に就職して、五年後に取引先の企業からかなりの高待遇で誘いを受けて転職し、そこでも結果を残してきた。しかし、お腹の中に子どもがいるとわかったとき、急になにもかもがどうでもよくなってしまった。突然、緊張の糸がプツリと切れてしまったようだった。それはあっという間の出来事だった。いろいろな仕事が同時に進んでいくと、優先順位があやふやになり、週や月ごとのスケジュール管理ができなくなった。頭のなかで先のことを予測をして考えようとしてみても、未来はすべてもやもやした、ひとつの泥団子みたいな球体に吸い込まれて見えなくなった。そこでは一日後も、一年後も、十年後もすべて同じみたいだった。自分の身にいったい何が起こっているのか、みはるにはよく分からなかった。お腹のなかのエイリアンがみはるの思考を乗っ取っているんじゃないかと、そんな馬鹿げたことを本気で考えた時期もあった。 最後には、自分はもう仕事を続けることはないだろうな、という他人事みたいな感想が残った。自分がどのくらいのあいだ職場から離れるか考えて、誰かに仕事を引き継いだり、一時的に優先順位が低いタスクを先延ばしにしたりすることはできるんじゃないかと思い、自分を奮い立たせようとしたが、それすらもできなかった。やる気が起きなかったのだ。円滑に産休と育休に入って、しかるべき期間の後に職場復帰するための地ならしのような作業を、みはるは放棄した。みはるが仕事を辞めると言ったとき、すでに周りはほとんど驚かなくなっていた。 「いま恋人とかいるの? 結婚とか」 みはるが話を変えて尋ねると、川奈くんの表情が一瞬曇った。 「いない。いまは特に必要ないと思ってるよ」 「なにそれ、嫌な別れ方をしたあとみたいな言い方」 「そうだね、嫌な別れ方をした」 「もしかしてわたしたちの別れ方のこと?」 「ははは。残念ながら違う。そんなのもう何年も前のことでしょう。それに、ぼくたちの別れ方は、もっとこう、絶体絶命だった」 自分たちがどんな別れ方をしたのか、今となってはほとんど思い出すことができなかった。たしか、同棲を解消するのと同時に別れたのだ。別れ方は実際のところ、大したドラマではなかったはずだ。みはるはベーグルをかじった。 「あのあと、わりとすぐに、別の女の人と付き合い始めたんだ。付き合ってたのは、六年か七年くらいかな。去年別れたばかりだ。その終わりかたに、あまり納得がいってない。でも、もうしばらく女性はいい」 「もしかして川奈くんも、わたしのこと忘れてた?」 「どういうこと?」 「つまり、わたしのことを思い出さなかったか、ということ」 みはるはこの七年間、川奈くんの存在をまったく思い出さなかったことを、ありのままに伝えた。どうしてそんなにもすっかり川奈くんのことを忘れてしまったのか、自分でも理由がよくわからないと正直に話した。 「ひどいなあ」 川奈くんは下を向いてため息まじりに、本当に悲しそうに言った。 「でも、ぼくにはその理由がなんとなくわかる。ぼくはどちらかというと、そういう人間みたいだ。いまさら驚かないよ。まず第一に個性がない。強い自己主張もしない。自分でもよくわからないんだけど、たとえば、古い友人から突然連絡が来るようなタイプじゃないんだ。頻繁に会って話をしているときはね、それなりに魅力的だと思うよ、それなりにね。大学で人類学をとったおかげで話題も豊富だし。もちろん、量子力学を専攻するようなひとたちと比べれば、ということだけど」 川奈くんは、なぜかそこで一息ついた。 「とにかく、友達には不足をせずに生きてきた。でも、いちど疎遠になるとなかなか思い出されない、どうやらそういうタイプらしいんだ。かなしいよね」 みはるは、自分もどちらかというとそういう人間のような気がした。ついさっき改札に現れなかった中学の同級生だって、会う時はいつもみはるから連絡をしている。そうやっていつも自分から誰かに連絡をしていたことに、仕事を辞めてから気がついた。旧友の誰かから連絡が来て食事に誘われるようなことは、記憶の限りではいちどもなかった。誘って断られることはないが、向こうから誘われることはない。そういう微妙なラインに、自分も川奈くんも乗っかっているのだろう、とみはるは思った。 「そうだなあ、ぼくはみはるのこと、それなりに思い出したよ。毎日ってわけでもないし、忘れてた時は、何ヶ月も思い出さなかったかもしれないけど。それでもそういう根本的な忘れ方をしたことはない。みはるに限らず、いちど深く関わったことのあるひとに関しては、ぼくはわりと何かあるたびに思い出すほうだと思う。あのひとだったらどう考えるかなあとか、あのひとみたいになれているかなあとか、そういうふうに、自分の行動についてもこれまでに会ったひとのことを基準に考えたりする」 「わたしはどういうひとなの」 「どういう時に思い出すひとか、ってこと?」 「うん」 「そうだなあ、たとえば何か決断をしなければならない局面のとき、『みはるならどちらを選ぶだろうか』というふうに思い出すことが多い気がするな」 「なにそれ。わたしって決断が得意なひととして、川奈くんのなかに残ってるってこと?」 「まあ、そういうことなんだろうね」 「わたしの決断は、間違っていないってこと?」 川奈くんはなぜか、目を見開いてみはるの表情を確認した。その反応を見て、みはるは自分の質問が唐突だったことに気がついた。 「うん、そう思うよ」川奈くんは答えた。 「ひとによってはさ、どうでもいいところでナイスなチョイスをして、大切なところで間違いを犯す、そういう奴もいる。でもみはるは、大きな判断に迫られると、必ず正しい判断をする。正しいという言い方が曖昧なのだとしたら、常識的な、と言い換えてもいい。そこはすごいと思うよ」 「たとえば?」 「そうだなあ、ひさびさに会って思ったけど、やっぱりちゃんと就職して、銀行員の旦那を見つけて、三十歳で子どもを産むっていうところかなあ」 「それって大切なことなのかな」 「大切かどうかは別として、簡単なことではないな。もちろん、ぼくみたいな人間からしたら、ということだけど。みはるは、人生で何に固執して、何を見放すべきなのか、その判断がうまくできてる気がするな」 ふうん、と思って聞きながら、それにしても今日の川奈くんはよく喋るな、とみはるは思った。昔はこうじゃなかったような気がした。 「そういえば、ゼリーはどうなった?」 みはるがゼリーのことを口にすると、川奈くんは、みはるがなんのことを言っているのか、すぐには分からない様子だった。 「カブトムシの、ゼリー?」 川奈くんが言った。 「なんでカブトムシなの。わたしたちが付き合ってた三年間の会話に、カブトムシっていう言葉が出て来たことは、おそらく一度もなかったんじゃないかな。あったっけ?」 「覚えてないけど、ゼリーという言葉を聞くと、自動的にカブトムシを思い出すな、ぼくは。個人的にゼリーって食べないから。昆虫の食べ物だと考えているらしい」 久しぶりに、みはるの頭の中に真っ黒なゼリーが浮かんできた。でもそれは、本当にあったことなのかどうか、いまいちうまく判別ができなかった。目の前に川奈くんがいなかったら、あれは自分の勘違いか記憶違いだと、一笑に付して終わっていたかもしれない。しかし、ゼリーの話は、目の前にいる川奈くんから聞いた話で、みはるも実際にそのゼリーを食べたのだ。みはるのなかに記憶が戻ってきた。まるで、夏の夕方に、あたりが急に暗くなって、アスファルトにひとつ、またひとつと雨粒のあとが浮かび上がるみたいに。短い雨のあとで、湿った草木のあいだから、二人で暮らした新宿のアパートが見えた。考えてみれば、ここからだって歩いて行ける距離だ。 「川奈くん、毎朝冷蔵庫のなかにゼリーがあるんだって言ったでしょう」 川奈くんがティーカップを持ったまま、固まった。 「どういうこと。さっきからゼリーの話っていうのが、なんの話だか全くわからないんだけど」 「同棲を始めた日に、川奈くんは、ちゃんと説明してくれたよ」 「申し訳ないんだけど、何が何やらさっぱりだな」 そのとき、腕時計がかすかに震えたような気がして、右腕を見た。みはるはランニングが趣味で、ふだんは活動量計をつけていたので、それが振動したのかと思った。しかし、右腕につけていたのは腕時計で、初任給で買ったお気に入りのマークバイマークジェイコブスだった。当たり前だがバイブレーション機能はついていない。妊娠が分かって以来、活動量計は外していることを、みはるはようやく思い出した。短針は二時前を刺していた。家に戻って、晩御飯の支度をすることを考えると、あまり悠長にしている時間はなかった。川奈くんにも川奈くんの都合があるだろう。 「ゼリーってなんだっけ? みはるのゼリーをぼくが勝手に食べたとか?」 「ほら、あの冷蔵庫のなかの真っ黒なゼリーだよ、覚えてないの? 川奈くん、昔から冷蔵庫のなかに自然とゼリーが発生するんだって言ってたよ。わたしと一緒に暮らし始めて、ゼリーが勝手に発生することはなくなったけど、同棲をはじめて最初の一日だけは、そのゼリーが冷蔵庫のなかに入っていたじゃない」 みはるの話を聞きながら、川奈くんはずいぶんと驚いたような顔をしていた。途中から目を細めて、下の唇をゆっくりもぞもぞと動かした。時間をかけて、何かを思い出している様子だった。 「大丈夫? 具合悪い?」 「うん、平気。少しずつ思い出してきた」 「わたしとの同棲を解消してから、川奈くんのゼリーはもとに戻ったのかなって、いまふと気になったの。ほら、わたしと一緒に住み始めてから、ゼリーは発生しなくなったわけでしょう。もしかすると、川奈くんの冷蔵庫には毎朝発生するゼリーが復活してるんじゃないかと思って」 「そんなことはない。ようやく思い出したよ。ゼリーはたしかにあった。毎朝、冷蔵庫のなかに真っ黒なゼリーが入ってるんだ。プラスチックの容器に入ったやつ。あれってたしか、ぼくが中学一年生のときから始まったんだけど、みはるが知ってるっていうことは、ぼくが二十歳くらいのときまで続いてたってこと?」 「そうだと思う」 「あまり記憶が定かじゃないな」 「気持ちはわかるよ。でも、あるひとつのきっかけが、いろんなことを思い出させてくれることもある。わたしだってこんなこと、もう何年も忘れてたんだから」 そのとき、川奈くんの携帯が鳴った。「父親からだ」と小さな声で言って、店の外へ出ていった。まだ父親は電話に出ていないのだから大きな声で言えばいいのに、やたらひそひそ声で「父親からだ」と言ったのがおかしくて、みはるはニヤニヤした。みはるは晩御飯のメニューを考えながら待っていた。銀行員の夫は本社での大きな会議が夕方に終わるので、いつもより早く帰ってくる予定だった。豆腐ハンバーグを手作りしよう。しばらくすると、川奈くんは「何でもなかった」と言いながら戻ってきた。 「父親から直接電話がくるなんて、珍しいから驚いた。何かと思ったら、東京は大丈夫か、妙なことが起きてないか、なんて言うんだ」 「どういうこと?」 「さあ。地震かテロかミサイルか、妙な噂でも立っているのかもしれない。なにかと物騒な世の中だから。それに父親ももう若くないしね。仕事を辞めてから、妙な発言や、被害妄想が多くなった」 「そろそろわたし、帰らないと」 みはるがそう言うと、川奈くんは、せっかく久々に会えたのに、残念だな、と言った。それは本心のようだった。みはるのほうも、できればもう少し話をしたかったが、考えてみれば新宿のコーヒーショップで平日の午後に男と二人で話すなんて、知り合いに見られたらどう説明をすればいいのかわからなかった。なにしろここは、物騒な世の中なのだ。 「最後にこれだけ聞いてもいいかな」 みはるが尋ねた。 「どうしたの、急に言いにくそうな顔をして。内容によるけど」 「妹さんは、見つかった?」 川奈くんは固まって、そのままみはるの目をじっと覗き込んだ。みはるは、まさか、妹のことも覚えてないと言い出すんじゃないかと思って、怖くなった。 「覚えてないの?」 みはるが聞くと、「そんなわけはない」と川奈くんは笑った。 「覚えてないんじゃない。ただ、ぼくは妹が失踪したことは、家族以外は誰も知らないものだと思っていたから、驚いたんだ」 「妹さんがいなくなったとき、わたしたち付き合ってたでしょ。たしか、双子の妹だよね」 「そう。彼女は自分がお姉さんだと思っていたけど、本当のところは彼女の方がぼくよりあとにお腹から出てきたんだ」 みはるは、あとから出てきたほうが上になるのか、それとも先に出てきたほうが上になるのか、よくわからなかった。でも今は、そんなことはどうでもよかった。 「わたしは川奈くんから直接聞いたの。妹さんがいなくなったって。それで川奈くん、一ヶ月くらい実家に帰っていたでしょう。わたし、そのときすごく寂しかったから、川奈くんが東京に帰ってきてすぐ、同棲しようって言い出したんじゃないかな」 「見つかってないよ、妹は。そういえば、もう十年経つんだな。妹がいなくなったのは、ぼくが二十歳になる前日だから」 さよならを言って、みはるは川奈くんを残して、先にコーヒーショップを出た。JRの改札へ歩きながら、川奈くんに会えて、話ができてよかったな、と思った。彼はあいかわらず不思議な人だった。彼はとにかく、自分とは正反対の人間なのだ。みはるはかなり現実的な人間で、どちらかというと、いつも何かに怯えてびくびくしながら生きてきた。そのせいで失ったのものもあるし、得たものもある。たとえば川奈くんという恋人は、そのせいで失ったものの一つかもしれなかった。あの頃の自分は、川奈くんみたいに気楽に生きてる人間のことが、しょっちゅう信じられなくなった。いつか痛い目にあうぞ、なんて勝手に思っていたけれど、今日の彼は、なんだか以前にも増して幸せそうだった。あいかわらず人の良さが滲み出ていて、よかった。けっきょく、連絡先を交換することはなかった。これを最後に、もう二度と会うことはないという確信があった。川奈くんが何の仕事をしているのか、聞き忘れてしまった。 ☆ 夕方、突然電話が鳴った。私はカップ麺を作るためにお湯を沸かしていた。友人がインドネシア旅行のお土産に買って来てくれた、インドミーという汁なし麺の包装のビニールを開けたタイミングだった。私が外国のカップ麺をレビューするブログをしていると知っている何人かの友人たちが、海外に行くたびにお土産を買って来てくれるのだ。インドミーはとても有名なカップ麺で、すでに何度も食べたことがあり、記事も書いていたので、その日は普通に夕飯として、おいしく食べるつもりでいた。ちなみに、私自身はそこまでカップ麺が好きなわけではない。スマートフォンの画面には、見覚えのない番号が表示されていた。 「もしもし、ぼくだけど」 電話の主はカワナだった。 「今日、むかしの恋人に会った」 別れて一年後に、いきなり電話をかけてきたと思ったら、これだ。彼にはこういう無神経なところがある。私みたいな繊細で神経質な人間が、よく七年間もこいつと一緒にいられたものだとわれながら感心する。 「久しぶり。私の記憶によると、たしか私も、あなたのむかしの恋人だと思うけど」 「うん」 「むかしの恋人が何人いるのか知らないけど、私に会うのはやめてよね」 「大丈夫、その予定はない。今日だって、たまたま駅で会ったんだ。ほとんど七年ぶりくらいに。きみの前に、二年か三年くらい付き合ってたひとだ」 「ねえ、わたしを怒らせようとしてるなら、悪いけど今度にしてくれないかな。いまからインドミー食べるから」 この男はいつも最悪のタイミングで電話をかけてくる。付き合っていたころから変わらない。 「インドミー?」 「なんでもない。とにかく切っていい? お湯が沸いた」 「ちょっと待って」 わたしはとりあえず、沸騰したお湯をポットに移し替えた。半分ぐらい移したところで容量いっぱいになったので、蓋を外して、まだお湯がたくさん入ったケトルをコンロの上に戻した。スマートフォンを左手から右手に持ち替える。 「この電話は何が目的なの。要点を教えて。私も暇じゃないから」 「その人とたまたま駅で会って、話をしてるうちに思い出したんだよ」 「へえ。駅で会って、立ち話でもしたの?」 「喫茶店に行って、一時間くらい話をした」 喫茶店に行って、一時間くらい話をした? なんだか小説やドラマみたいな話だ。現実の世界で、別れた二人が数年ぶりにたまたま再開して、そのままお茶をするなんて、実際にそんなことが起こりうるのだろうか。駅というのはいつでも、目的地へ向かうまでの通過地点だ。少なくとも概念としてはそういうのものだ。どうして駅でたまたま会った昔の恋人と、一時間も話ができるのだろう。 「ねえ、参考までに聞きたいんだけど、駅でたまたま会った昔の恋人とそのまま喫茶店に行くっていうのは一体、どういう神経とスケジュール管理をしていたら、可能なの?」 「怒ってる?」 「怒ってない。怒ってる、怒ってないっていうこの会話、何度もしたよね。私が何かを尋ねるときというのは、九十九パーセント純粋な好奇心なの。怒ってる時は私の状況をステートメントとして発表するから安心して。疑問形にはしないから」 「一パーセントのほうかと思ったけど、それなら安心した」 そう言うと、カワナはひとつ呼吸を置いてから話を始めた。 「今日は仕事で依頼人と待ち合わせしてたんだ。依頼人といっても、依頼人の代理のような人だけどね。ぼくの依頼人は電車なんて使わないから」 「で、依頼人の代理人が、突然キャンセルして、カワナは暇になったってわけ」 「うん」 「そしたら、ちょうどその場に昔の恋人がいて、その昔の恋人も時間を持て余していた」 「うん」 「待ち合わせって、どこで?」 「新宿駅東口改札」 「東口?」 「なにか問題?」 「悪いこと言わないから、落ち着いて仕事の話がしたいんだったら西口で待ち合わせなよ。オトナとして」 「覚えておくよ」 「何時待ち合わせ?」 「十二時。時間が過ぎてたから、ぼくはささっとあたりを見回して待ち合わせの相手を探してたんだ。そしたら彼女がいて、ぼくから声をかけた」 「その女の人、名前はなんていうの」 「みはる」 名前を聞けば心当たりがあるかもしれないと思ったが、聞いたことがあるような気も、初めて聞くような気もした。だいいちみはるという名前は、あまり記憶に残らない名前だ。 「みはるさんが待ってた相手っていうのは、キャンセルになったの?」 「いや、キャンセルになったというより、待ち合わせた相手が来なくて、連絡もなかったから、待つのをやめた、って言ってた」 「十二時の待ち合わせ?」 「ぼくは十二時。みはるが何時に待ち合わせをしていたのかは、聞いてない。十一時か、十一時半か、十二時か。それがどうしたの」 「そのみはるさんっていう人、本当に誰かを待っていたのか怪しいね。本当はカワナのこと待ち伏せしてたのかもよ」 カワナは気が抜けたように「へえ」と言った。その感じから、カワナはみはるさんに未練がないことが容易に想像できた。 「普通、たまたま再会した昔の男と、ふたりで喫茶店に行ったりしないよねえ。まあいいや、とにかくふたりは喫茶店に移動して、昔話に花を咲かせたわけだ」 「うん」 「楽しかった?」 「喫茶店に到着して、落ち着いて話をしたのは一時間くらいだったと思うけど、会話の盛り上がりは五分咲きくらいだったと思うよ。正直に言って彼女のことはどうでもいいんだ」 「どうでもいい、ふうん。なかなか突き放した言い方をするね。どういう人なの、そのみはるという人は」 「ぼくたちとは正反対の性格だと思うよ」 「ぼくたち?」 私はかっとなって言葉を取った。 「お気に召さない?」 「一緒にされたくはないね」 「とにかくけっこうピリピリした人だから、癇癪を起こさないように気をつけなきゃいけない。ぼくなりにすごく気を遣って同棲していたことを思い出した。基本的に、他人のことに興味がない人なんだ」 「オッケー、オッケー。それくらいにして。それで、その人と話してて、何を思い出したの」 「ああ、そうそう。思い出したんだ、今日、その人と会って話をしてるときに。ぼくの過去の秘密を」 「秘密? カワナの秘密?」 「そう」 「カワナくん、質問なんだけど」 「なに」 「わたしがカワナの秘密を知りたいと思う?」 「思わない」 「だよね。思うはずがないよね。じゃあね」 「ちょっと待って」 私はしばらく迷ったのち、ケトルに残っていたお湯を、インドミーに注いだ。パッケージに、内側の線までお湯を注いでください、というようなことがインドネシア語と英語で書かれていたけれど(もちろんインドネシア語なんて読めない)、それらしい線は見当たらなかった。湯切りのための小さな穴がついたプラスチックの蓋を取り付けて、書かれている通りに三分間待つことにした。 「これはぼくの秘密なんだけど、とても繊細な問題なんだ。つまり、ぼくだけで留めておこうとしても、すぐに消えてしまうんだよ。今つかまえて、留めておかないと、寝て起きたら消えちゃうかもしれない」 「なにそれ」 「本当なんだよ」 「紙にでも書いておいたら?」 「ぼくが文章書けないの知ってるくせに」 「ボイスレコーダー」 「持ってない」 「スマホについてるでしょ」 「そういうのじゃ、意味がない気がするんだよ。紙でもボイスレコーダーでも、また読んだり聞いたりしないと意味はないから。それって結局はぼく次第だし。とりあえず、信頼できる人に話しておきたいんだ」 「その、今日会った昔の恋人じゃだめなの? 話を聞いた感じだと、その恋人との秘密なんでしょう。その人が覚えててくれるんじゃないの、もしカワナが忘れても」 「彼女は部分的に関わってくるだけで、その人との秘密ではないんだよ。それに、みはるはもう巻き込まれてしまっているんだ。ぼくが必要としているのは、この出来事に距離を置いて向き合える人なんだ。なによりも、ぼくが心から信頼できる人じゃなきゃだめだ」 私の知る限り、カワナはあまり抽象的な事象について語りたがるひとではない。それはどちらかというと、私が得意とする作業だ。彼の性格は、それよりも目の前にある物事を淡々と処理していくのに向いている。もしかすると、彼にしては珍しく、自分の思考に落ち込んでいるのかもしれない。 「わかった。聞くよ。聞くだけでいいんだよね?」 「うん、聞くだけでいい。ありがとう。今のぼくにはただ、証人が必要なんだ」 私の頭のなかに、witnessという英単語が浮かんだ。証人、目撃者という意味の英単語だ。ラップトップを閉じて、冷蔵庫のなかからコンビニで買ってきたソイラテを取り出してソファに横になった。インドミーのあとで飲むつもりだ。ほんとうは、カップ麺を食べてソイラテを飲みながら、翌日の朝まで仕事をする予定だった。 「これは、ぼくとみはるが同棲を始めたころの話になると思う。どういう順序で、どこまで詳細に話せばいいのか、喫茶店からの帰り道、ずっと考えてた。できれば一気に話してしまいたいんだけど、大丈夫かな?」 「あ、大丈夫、こっちもいちいち質問を挾むつもりはないから。聞くモードに入ってるから、黙って続けて」 これはぼくがみはるさんと付き合っていた頃の話なんだけど、とカワナは話をはじめた。インドミーは完成を待つだけだ、ゆっくり食べながら話を聞こう。ちなみにインドミーは、小分けにされた調味料がやたらたくさん入っている。しっかりかき混ぜるのがポイントだ。 ☆ 「川奈くんは、同棲ってしたことあるの」 二十歳になったカワナに、恋人のみはるさんがそう尋ねたのは、ふたりが同棲を始める二ヶ月前のことだったらしい。カワナのくせに、そのみはるさんという元恋人には「川奈くん」と苗字プラス「くん」で呼ばせていたというのが、偉そうで気にくわない。そのころ、ふたりはまだ大学生で、別々にひとり暮らしをしていた。元旦を過ぎたばかりの、日曜日の午前十一時だった。みはるさんが一人暮らしをしていたアパートで朝を迎えた二人は、バスに乗って駅前まで出て、有名な全国チェーンの店でカレーを食べていた。カワナは具なしのカレーを、辛さゼロで注文した。夜に食べるのであればウインナーカレーにするところだったが、午前中から脂っこいものを食べる気分にはなれなかったので、やめた。みはるさんはあさりカレーをご飯少なめ、辛さ追加で注文した。カワナは昔から、具なしのカレーがいちばん好きなのだ。胃弱な体質は、みはるさんと一緒にいた時からのものらしい。 「ないね」 カワナは簡潔に答えた。 「彼女だけでなく、男友達とかも?」 「ないな」 カワナは大学に入るために、田舎から東京に出て来た。一年生のゴールデンウィークから神楽坂のフランス料理店でウエイターをはじめて、誰よりも多くシフトをこなしたので、二年生になると奨学金を借りるのをやめて、一年生のときの奨学金を返しはじめた。そのころから、一緒に住もうと誘ってくる大学の男友達が何人かいたけれど、いくら仲が良くても断っていた。カワナは小さい頃から両親が共働きで、妹はひきこもりだったために、他人に干渉されず、自分のリズムで生活を送るのが好きだった。 カワナには双子の妹がいた。小学校五年生にあがった四月から、二十歳を迎える前日まで、彼女はほとんど自分の部屋から出てこなかった。当然、学校の勉強はまったくできなくなったし、そういう人間によくあるように思い込みでいろんなことをしゃべっていたから、家族の誰とも会話が噛み合わなかった。カワナの妹は、二十歳の誕生日を迎える前日、突然家から姿を消した。正直なところ、頭の中身が小学生のまま止まった妹は、家族のなかで厄介者というか、腫れ物みたく扱われるようになっていた。カワナは、彼女がいなくなったと知らせを受けてからしばらくの間、バイトも授業も休んで実家に帰った。両親はもちろん悲しんでいたけれど、それがどこまで本心なのか、すでに一緒に住んでいなかったカワナにはよく分からなかった。彼女の部屋の荷物を整理していた時に、妹の記憶を辿ってみて、おかしなことに気がついた。小学生低学年のときの、幼いころの妹の姿しか思い出すことができないのだ。大人になった妹の顔が、記憶からぽっかり抜けてしまっていた。写真は残っていなかった。妹は写真が嫌いだった。 みはるさんとの出会いは、カワナが勤めていたフランス料理店に、みはるさんが家族と訪れたことから始まった(そのころみはるさんはすでにひとり暮らしをしていたけれど、実家は都内にあったから、たまに家族で集まって、食事を楽しんでいた)。彼女は食事会の二週間前にいちど来店して、両親が食べられない食材のリストをカワナに手渡した。そのリストの文字が汚くて読めなかったので、カワナは確認のためにみはるさんに連絡を取った。それが始まりだった。ちなみにみはるさんはひとりっ子で、厳しい両親にしつけられたせいか、食べ物の好き嫌いはまったくなかった。 カレーハウスの店内に、スプーンが皿に当たる、硬いコツコツという音が響いていた。ふたりの他には、お客さんはひとりもいなかった。みはるさんは、あさりをカワナから見て右側に寄せながら、 「これがデートなんだけどねえ」 と呟いた。話が急に変わったので、カワナは彼女の言っている意味がわからなかった。左からご飯、カレー、あさりが、半月状になって、南の島の珊瑚礁みたく皿のうえに浮かんでいた。みはるさんは食べるのが遅い。カワナは顔を上げた。みはるさんは気だるげに肘をついていた。白い長袖のシャツを着ていた。 「川奈くんねえ、これがデートなんだけど。わかってる?」 みはるさんはもう一度言った。 「これがデート」 カワナは繰り返した。みはるさんの表情は怒っているようにも、呆れているようにも見えた。カワナの反復を聞いたみはるさんは、無味乾燥に、言葉をぷつぷつとひねりながら言った。 「日曜日の、午前十一時に、駅前のカレー屋さんで、カレーを食べるのは、デートだと思うんだけど」 カワナは、すでに空になった自分の皿を見ていた。ルウが縞模様になって残っていた。 「ぼくはプレーンのカレーが好きで」と言ったところで、みはるさんは「そのことを言ってるんじゃなくて」と静止した。カワナはもう一度黙った。 「さっきから、今日はとことんつまらない一日です、っていう顔をしてるんだよ」 言いながら、その顔のことですよ、と示すように、みはるさんはスプーンでカワナの顔を指した。 カワナはそれを聞きながら、(たしかに今のぼくはカレーを食べながらさえない顔をしているかもしれないけど、この状況でつまらない顔をするのは当たり前ではないだろうか)と心のなかで反論した。日曜日の午前十一時にさえないカレーを食べているときくらい、さえない顔をしてもいいじゃないか、と思った。この瞬間をさしおいて、いったいどんな時にさえない顔をすればいいのだろう、というような、まさにさえない顔にとっては絶対に逃してはならない好機のように思われた。 「これがデートじゃなかったとしたら、ずっとデートじゃないよ」 みはるさんが続ける。 「デートって、そうだなあ、十回に七回は、日曜日の午前十一時に、他にやることがなくて駅前のチェーン店で不味いカレーを食べるようなものだと思う。こういうのを楽しめないのであれば、わたしたちは一緒にいるべきじゃないよ。それにね、ふたりが同棲するなら、今のタイミングがいいと思うんだ」 どうやら、みはるさんもカレーを不味いと思っていたらしい、とカワナは考えた。彼女よりいくぶんか回転数が劣る彼の脳みそは、しばらくして、何を言うべきかようやく探り当てた。 「つまらない顔をしていたのは申し訳ない、謝るよ。でも、そっからどうして、同棲っていう話になるのか、よくわからないんだけど」 みはるさんはあさりカレーの匂いをいまいちど確認して、「腐ってるのかな、これ」と言って、乱暴にスプーンを皿のなかに投げ込んで、そのまま話を続けた。 「わたしたちももう一年付き合って、お互いの表面的なところは、だいたい理解できたと思う。カレーを食べる時の癖とか、そういうのにいちいち驚くことも、話題にすることもなくなったし」 カワナはカレーを食べるとき、最初に全体をかき混ぜて、お好み焼きのような綺麗な円を作って、少し冷ましてから一気に食べるという癖があった。はじめのころは、汚いだとか、変わってるだとか、いろいろ言われて、笑いながら反論したものだった。付き合って半年経った頃には飽きられて、文句も言われなくなった。 「それにね、わたしたち、そろそろ一つの場所に落ち着いたほうがいいと思う。このままじゃ、お互いのことが少しずつわからなくなっていくんじゃないかな」 カワナはみはるさんの言葉の意味が全くわからなかったけれど、とりあえず逆らわないことにした。その日の午後のデートは、二人が一緒に暮らすための部屋を探すことになった。 それからおよそ二ヶ月後の三月二十三日、カワナとみはるさんは新居に引っ越しをした。引っ越し業者のトラックが狭い路地に悪戦苦闘したせいもあって、それぞれの部屋にベッドを用意してとりあえず寝る準備ができるころには、すでに深夜の一時を回っていた。カワナはなんだか夜逃げをしているような気持ちになって、近所の人に申し訳ない気持ちがした。引っ越しの作業は明るいうちに終れるように、次からは気をつけようと思った。 ブランケットの四隅をぴんと整えて、壁についているスイッチを押すと、部屋のなかは真っ暗になった。さっきまでそこにあったはずのベッドが見えなくなって、すり足でゆっくり近づいた。手探りでベッドのなかに潜り込んで、マットレスの感触を確かめた。しばらく経つと、暗闇に目が慣れてきて、縁取りのない白い天井がぼんやりと浮かび上がった。ときおり、どこかの通りに車が走って、薄いヘッドライトの光がワイパーのように天井を這って動く。遠くのほうで、タイヤが地面から剥がれるバリバリという音のほかには、何も聞こえない。ホームセンターで買った本棚は明日届く予定で、部屋の四方の壁はむき出しのままだった。部屋の中はできたての真空管のようにしんとしていた。もしかすると、この三〇一号室以外、このアパートには誰も住んでいないのではないかと思われるほどだった。 三月特有の穏やかな雨が降っていた。夕方に少し太陽が出て、日が暮れると同時にふたたび雨が降り出した。ブランケットを肩まで被っても、冷たい冬の空気がそのうえから覆いかぶさってくる。こんなことなら、今日のうちにエアコンのフィルターを取り付けておけばよかった、と思った。 突然、部屋の扉がノックされて、乾いた木の音が響いた。どんな声を出せばいいのかわからないので、カワナはとりあえずベットから出て、立ち上がった。その物音を聞いたらしいみはるさんが、ゆっくりと扉を開けた。 「寝てた?」 リビングの光が床を照らして、その向こうに立つみはるさんが聞いた。眩しくてほとんど目が開けられなかったが、小さなシルエットが立っているのをかろうじて確認した。カワナは、ううん、と答えた。みはるさんは、 「かえるの鳴き声がするんだけど、聞こえてる?」 と尋ねた。かえるの鳴き声なんて、全く聞こえていない。ときおり通るタイヤの音以外、何も聞こえていなかった。 カワナは「なにも」と言ったきり、ベッドのそばに黙って立っていた。みはるさんが彼のところまで来て、カワナの袖を引っ張った。ダイニングを通ったとき、窓の外の夜景が目に入って、足を止めそうになったが、そのまま彼女の部屋に入った。みはるさんの部屋もカワナの部屋と同じように、ベッド以外は何も置かれていなかった。ただ、みはるさんの部屋は、窓の外にあるお寺の外灯が、カーテンを白く照らしていて、カワナの部屋よりも明るかった。窓の外からグウグウという、かえるのずっしりとした鳴き声が、何層にも重なって響いていた。 みはるさんと同じベッドに入って、かえるの鳴き声を聞きながら、カワナは自分がいま眠っている、これから二人で暮らす新しいアパートのことを考えていた。大久保通りを新宿方面へ向かう途中で左に折れて、車では通れない細い路地をいくつか曲がって、お寺の私道を通り抜けた先にあるアパートで、日蓮宗の建物と、小ぎれいなお墓と、さびれた変電所に囲まれていた。引っ越しのトラックは、お寺の裏口の駐車場に停めさせてもらい、そこから荷物を搬入した。作業員の人たちには、冷蔵庫やベッドやコンロや電子レンジや、いくつものダンボールを抱えて狭くて長い通路を何度も往復させてしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。カワナの荷物は本が十数冊くらいのものだったので、トラックからは、みはるさんの部屋の荷物が次から次へと運び出されていった。 内覧に来たとき、管理会社のおじさんは、このアパートは人気だから、部屋に空きが出るとすぐに埋まってしまうと言っていた。みはるさんは、屋根の瓦の紅い色をとても気に入った。たしかに、新宿駅まで徒歩圏内という立地でありながら、緑が多く、昼間でも世界から誰もいなくなったみたいに静かなので、好きになるのにとくに努力は必要としないアパートだった。山の手線の内側ではもっとも標高が高いエリアで、キッチンの出窓からは、まるで額縁で切り取ったような池袋のビル群を見ることができた。カワナは頭のなかでサンダルを履いて、玄関の扉を開けた。向かいの三〇二号室の灰色の扉が目に入る。各階にふたつずつ部屋があって、玄関の扉が対になって向かい合っているが、同時に部屋から出てくるとお互いの扉がぶつかってしまうほど狭い。エレベーターは付いていないので、階段をゆっくり降りる。雨の水が階段を湿らせていて、傾斜も急なので、ゆっくり進む。階段を歩いている途中で、雨がにわかに強くなって、それまで聞こえていたかえるの鳴き声がかき消された。一階まで降りるまえに、カワナは眠ってしまった。 朝、目がさめると、みはるさんはすでにベッドからいなくなっていた。部屋のなかは白くて新しい壁紙が太陽の光を反射させて、完成したばかりの理科棟の実験室みたいにすみからすみまで明るかった。 小さなダイニングに出ると、魚を焼くグリルまで付いている立派なコンロをダンボールから出しながら、みはるさんが「いつ買って来たの」と聞いた。カワナが「なんのこと」と聞き返すと、それだよ、それ、と後ろすがたのまま左肘でテーブルの上のゼリーを指した。カワナは答えに困った。「冷蔵庫のなかに入ってたんだけど」みはるさんが付け加えた。冷蔵庫がこの部屋に届いたのが昨夜で、その時点ではもちろん中身は空だった。それが朝起きて見知らぬ黒いゼリーが入っていたのだから、質問をされても仕方がない。 カワナは質問を無視して、とりあえずよく眠れたかどうか尋ねた。みはるさんは、いまいちと答えた。 「わたし、寝つきが悪いの。小さな物音でもすぐ起きちゃうから」 「そうだったっけ?」 カワナが尋ねると、みはるさんは腫れぼったい目で「そうだよ」と無愛想に言った。なんで怒ってるのと聞いたところで余計に怒り始めるのは目に見えているから、それ以上余計なことは言わずに黙っておいた。 カワナは、彼女が過去に、いまと真逆のこと言ったのを思い出していた。いつかみはるさんの家に泊まりに行って、ベッドの中でお互いの睡眠について話をした時に、カワナがいちど寝たら朝まで起きない体質だという話をしたら、みはるさんは「わたしもそうだよ」と言ったのだ。実際、みはるさんの部屋で、朝、よく眠れたか質問をすると、だいたい「よく眠れた」とすがすがしい答えが返ってきたものだった。あれは嘘だったのだ。 カワナは洗面所で顔を洗ってから、ゼリーについて簡単に説明をした。中学一年のときから冷蔵庫に発生し始めたこと、引っ越しても、冷蔵庫を買い換えても、八年間休むことなく毎朝発生し続けてきたこと、とくに害はないらしいこと。誰かにゼリーのことを説明するのは初めてだったが、それなりに簡潔にまとめて話すことができた。これまでは、家族以外の誰かと一緒に暮らしたことはなかったし、たまに誰かを家に泊めたとしても、わざわざそんな妙なことを発表したりしなかった。身の回りの非科学的な出来事について話をしなければないらないのは、普通の人間にとっては気がすすまないものだ。 みはるさんは、カワナがからかっていると思ったらしく、真顔になって問い詰めてみたり、意味がわからないと不貞腐れたりしてみせた。カワナは、みはるさんの反応はもっともだと思った。みはるさんはしばらく黙ったあとで、 「朝まで、ずっと冷蔵庫の前で見張っていたことはある?」 と尋ねた。銀色の蓋の円周を、器用なロボットみたいに五本の指で持ちあげて、下からゼリーを覗き込んでいた。六角形の容器は透明で、アルミでできた蓋には、なにも書かれていない。 「リサイクルのマークとか、耐久温度とか、そういったことも書かれていないね」 「見張っていたことはないね」 カワナは答えた。 「開けていい?」 みはるさんが聞く。 「それは、やめたほうがいいんじゃないかな」 そう答えると、みはるさんは「臭い?」と聞いた。 「臭いかどうかはわからないけど、まあ、臭くはないんじゃないかな。臭いが漏れてきたこともないし」 「開けたこと、ないの?」みはるさんが目を見開く。 「ない」 「わあ、信じられない。これまで、八年間、いちども?」 「ないね」 みはるさんはテーブルに両ひじをついて、頭を抱えた。ここに気の毒な地球人がひとりいました、と母星に電波を送る異星人のような、大げさな仕草だった。 「世の中の不思議な現象っていうのは、きっと川奈くんみたいな人を狙って、発生するんだね。そうやって、非科学的な現象は、科学の目をかいくぐるのだ」 「とりあえずさ、それはなんでもないんだよ」 「あのねえ、なんでもないってことはないでしょ」その深刻さが入り混じった口調に、カワナは違和感を覚えた。そのゼリーは本当に、そんな大そうなものではないのだ、と言いたくなった。 「だって、このゼリーは川奈くんに届けられているものでしょう。誰かが、なにか考えを持ってこの種類のゼリーを選んで、わざわざ川奈くんの部屋まで運んでいるわけでしょう」 カワナは驚いた。そんなふうに考えたことは、いままで一度もなかったのだ。誰かの意図が介入していると考えるのは気味の悪いことだったし、そのゼリーはただの廃棄物、棄てるだけのものだという習慣を持っていた。考えをすっ飛ばして習慣だけを身につけていたので、いまさらなにかを考えようとすると滑稽な、妙な感じがするのだった。 カワナは腰を据えて話をしなければならない予感がして、テーブルを挟んでみはるさんの向かいの椅子に座った。しかし、どうも落ち着かないので、コーヒーを入れるためにもう一度立ち上がった。 雪平鍋に水道水を入れて火をかけると、 「ねえ、早くとってよ」 とみはるさんが声をかけた。 「なにを?」 「スプーン」 「ちょっと待って、食べようとしているの?」 「当たり前じゃない。早く」 それにはさすがに、やめたほうがいいんじゃないかと言った。得体の知れない物体をからだのなかに入れるのは、良くないのではないかと思ったからだ。 「川奈くん、これは冷蔵庫のなかに入ってたのよ」 みはるさんはきわめて冷静だった。すでに蓋を開けて、匂いを嗅いでいた。 「電源が入ってない冷蔵庫のなかね」カワナが言うと、 「薬草みたいな臭いがする」と小さく言って、彼がスプーンを取って戻らないことを悟ったのか、自分で立ち上がってスプーンを取りに来た。 「もし、これが食べちゃいけないものだったら、わたしだったら冷蔵庫のなかには入れないね。蓋もしない。考えてみてよ、わざわざ冷蔵庫の扉を開けて、中に入れてくれてるのはさ、ゼリーの鮮度を保とうとしてくれてるんだよ。間違いないね。もし川奈くんが、人の家に勝手に上がり込んで、勝手に物を置いて帰るとして、食べられないものだったら、わざわざ冷蔵庫の扉を開けて中に置いていかないでしょう? 夜中に内緒で冷蔵庫を開けるのってね、わたし食いしん坊だから経験あるけど、結構ドキドキするのよ。開け閉めのたびに、くっついてるゴムが剥がれる音がするし、サーモスタットが、急に音を立て始めたりするし。ただでさえ他人の部屋に上がりこむのは大変なのに、冷蔵庫のなかに入れてくれるのは、美味しく食べてねっていう親切心だと思うけど。それに、アルミの蓋をしてくれているのもそう。蓋ってさ、中身の鮮度を保つためにするものでしょ」 食べちゃいけないはずがない、とかなんとか言いながら、みはるさんは真っ黒なゼリーをなんとも気軽にひょいと口の中に放り込んだ。 「あれ、これ、仙草ゼリーだ」 なんてことない顔をして、ふた口、み口と食べてしまった。 「中身はただの、普通のゼリーね。高校のときに友達と台湾を旅行したときに、わたしこのゼリー食べたことある。仙草ゼリーっていって、仙草っていう植物の草とか茎を煮出して作る、健康的なゼリー」 「そうか、コーヒーゼリーではないのか」 「コーヒーゼリーだと思ってたの?」 「うん」 みはるさんはもういちど頭を抱えた。 「だって、川奈くん食べたことないんだよね、このゼリー」 「ないよ。でも黒いゼリーってイコール、コーヒーゼリーだからさ。ぼくのなかでは」 みはるさんは何も答えなかった。そのまま、あっという間にゼリーを食べ終えてしまった。なんの考えもなしに勢いよく食べていって、最後の一口だけ、やたら丁寧に、舌触りを確かめていた。カワナはその様子を見ながら、はじめて、そのゼリーの存在がなにか不吉な、おそろしいもののように思えてきた。みはるさんがゼリーの容器と蓋を、大きくて透明なポリ袋のなかに捨てると、袋ごしにフローリングの床に当たって、からんと乾いた音がした。そのときカワナは、それまでの八年間、自分なりにゼリーの存在に向かい合って、距離を測ってきたのだと気がついた。そしてたった今、そのバランスが壊されてしまったのだなと感じた。 ☆ 得体の知れないゼリーが最初に発生し始めたとき、カワナはまだ十二歳で、季節は四月だった。中学校に入学したばかりの彼は、野球部の朝練のために毎朝早起きしていた。もっとも、早起きの習慣もほんの数週間だけのことだった。自分は部活動のような集団行動には向いていないと気づいて、ゴールデンウィークの前には部活そのものをぽんと辞めてしまった。 その日の朝、前日にあらかじめ作っておいた冷蔵庫のなかの麦茶を取り出して、ダイニングテーブルの上で銀色の水筒に注いでいた。水筒いっぱいに麦茶を入れて、三分の一ほどになった麦茶の容器を冷蔵庫に戻すとき、見覚えのない黒いゼリーが置いてあることに気がついた。当時まだ身長が低かった彼でも手が届きやすい、いつも父親がビールにあうおつまみを置いている場所だった。 そのゼリーを、彼はしばらく見つめていた。冷蔵庫を開けっ放しにしているのが見つかると、親に怒られるとわかっていたはずなのに、最初にゼリーを目にしたあのときだけは、朝の練習に遅れてしまいそうになるくらい、かなり長いあいだゼリーを眺めていた(冷蔵庫のなかには、母親が買い溜めた食料がぎっしりと詰まっていたはずなのに、カワナがあとになってその朝のゼリーを思い出すとき、そのゼリーの周りには何もなくて、ただぽつんとそのゼリーだけがオレンジ色の光に照らされていた。まるで家電量販店のキッチンコーナーに置いてある、生ぬるい冷蔵庫のレプリカみたいだった)。 翌日も、その翌日も、ゼリーは毎朝ひとつずつ増えていった。最初は増えていくゼリーの数を数えていたけれど、三日か四日経ったころには、ゼリーのことはあまり気にならなくなった。それどころか、途中からなんとなく、父親がどこかで買ってきているのだなあと思っていた。しかし、ゼリーが発生し始めて一週間ほど経ったある日、母親がゼリーを捨ててもいいかとカワナに尋ねてきた。そのときになってようやく、父はゼリーのようにプルプルした可愛らしいものを食べる人ではないと気がついた。カワナは母親に、そのうち食べるから放っておいて、と答えた。それからというもの、ゼリーをこっそり定期的に捨てるのが、カワナの仕事になった。 ゼリーが発生し始めたころは、ほかに何か異変が起きていないかどうか、キッチンの細部に至るまで、慎重に気を配って確認をした。毎朝冷蔵庫を点検するのはもちろん、戸棚やシンクの下の扉、電子レンジのなかなどをいちいち開けて、異変が起きていないかチェックした。しかし、二週間も経たないうちに、そんな面倒臭いこともやめてしまった。彼の人生は、いくら見回してみても謎のゼリーが発生する以外はあっけないくらいに変化がなく、平和そのものだった。 こうしてゼリーは、カワナだけの秘密になった。彼はそれを、友人を含めて誰にも話さなかった。だからといって、カワナはそのゼリーの現象について、とくに大げさな考えを持たなかった。つまり、世界を揺るがす重大な出来事とも思っていなかったし、その存在を世間からひた隠しにしなければならない、というような、使命感も持っていなかった。そのころからすでにカワナは、誰の手にもよらず冷蔵庫のなかにゼリーが追加されるというようなことは、たしかに面倒くさい現象ではあるが、珍しいことではないと考えていた。ゼリーの発生についても、自分はただの目撃者であって、自分が引き起こしたことではないのだ、という自信があった。それに、きっと今この瞬間にも、ぼくみたいに得体のしれない不思議な現象を引き受けている人はたくさんいるだろうとも思っていた。いや、たくさんいるどころか、ほとんど全員といってもいいかもしれない。本人にとっては当然すぎて、疑問に思うことすら忘れてしまった、非現実的で不思議な現象。 十八歳で大学に入って、東京に引っ越して、ひとり暮らし用の小さな冷蔵庫を買ってからも、そのゼリーは発生し続けた。朝起きて真水で顔を洗ったあと、すぐにそのゼリーを冷蔵庫から取り出すのが習慣になった。しっかりとアルミニウムの蓋がしてあったので、真夏の暑い日に外に放置しても匂いを放ったりすることはなかった。家族に気を遣う必要がなくなったので、彼はそのゼリーを、区が指定するごみ袋に詰めて、月に一度のペースでまとめて捨てるようになった。家に遊びに来た恋人や友人は、そのゼリーについて、不思議と何も言わなかった。単に気づいていなかったのかもしれないし、気づいていたとしても、面倒だから余計なことは言わなかったのかもしれない。 ☆ みはるさんがゼリーを食べ終わってから、ふたりはその日いちにちの予定を確認した。午前中はガスの開通のために東京ガスのひとが来ることになっていた。午後はホームセンターで買った本棚と、炊飯器やらポットやらを置くためのキッチンラックが届く。時間はいつでもいいから、向かいと下の階の住人に、みはるさんがデパートで買って来た洋菓子を持って、ふたりで挨拶に行く。駅前の不動産屋で、入居の書類にハンコを押す。もし午後の配達が早く済んで時間があったら、ふたりで夕方までに区役所に行き、みはるさんの転入届と、カワナの転居届を出す。玄関とトイレのマット、スリッパ、脱衣所のカーテンと突っ張り棒を買いに行く。やることは山ほどあった。 十一時ごろにはガスが無事に開通して、食器や調理道具を荷ほどきして整理していたら、あっという間にお昼になった。軽く汗をかいたので、カワナは気分転換のためにシャワーを浴びることにした。給湯パネルとバスタブは入居前に大家さんが新しく取り替えたばかりで、カワナもみはるさんもどうせバスタブは使わないと分かっていながら、ぴかぴかに光る真っ白な浴槽は魅力的だった。どうせなら、汚い浴槽の横よりも、綺麗な浴槽の横でシャワーを浴びた方が、気分がいい。たとえ中には入らないにしても。 そんなことを考えながら、熱いお湯で石鹸の泡を流していると、すりガラスの向こうに突然みはるさんが現れた。なにかしゃべっているようで、シャワーのお湯を止めて耳を傾けた。「川奈くん、洗濯機の水が漏れてる」と言う。洗濯機はベランダにある。カワナはあわてて体を洗い流して、水気を拭いて、下着を履いて駆けつけた。こっちこっち、と言われるがままにみはるさんの部屋のベランダを見ると、洗濯機から出た水が溜まって、池のようになっている。池の表面には、ふわふわとした泡が楽しそうに揺れていた。水が漏れているのではなく、排水口が詰まっているとすぐにわかった。排水口は、となりのお寺の境内でのびのびと育った大きな銀杏の木の落ち葉と、風で飛ばされてきたビニールなんかがごっちゃになって詰まっているらしく、泡だらけの水面の下に不穏な影を浮かべていた。左右あべこべに、小舟のように浮かんでいるスリッパをハンガーで手繰り寄せて、両足に引っ掛けた。右足を入れると水の量が増して、その次の左足で立てた波がそのままベランダの外にあふれてしまった。「水が外に溢れてるよ」とみはるさんが言う。洗濯機の排水を止めようと思い、電源ボタンを押したが反応しない。二、三度強く押してもやはり反応がない。そのとき、みはるさんが、洗濯機に水を注水するための蛇口から、ホースを外した。カワナは「いや、それを外しても意味ないでしょ」と言って止めたが遅かった。勢いよく水が噴き出して、洗濯機の蓋にボコボコという音を立ててぶつかった。みはるさんがすぐに蛇口をひねって水を止めたものの、カワナは跳ね返った水で胸から下がびっしょり濡れてしまった。洗濯機はなおも濁った水を排出し続けていた。パンツ一枚で、ぼくは一体何をしているんだろうとカワナは思った。寒かった。みはるさんがだらしなく握っているホースは、特殊なネジで四方から蛇口を固定する金具が付いており、少しでも緩んでいると洗濯機に水が入っていかない仕様になっている。午前中にカワナが三十分以上かけて、苦労して取り付けたばかりだった。カワナはとりあえず無言で、狭いベランダの隅にある排水口に向かった。ちっぽけなブロック塀の上に置かれたエアコンの室外機が、下から二センチほど水に浸かっていた。 排水口のまわりには、枯葉やカナブンの死骸が真っ黒になって浮かんでいて、行ったことはないが地獄の入り口はこんな感じだろうと思った。まずはハンガーでこちょこちょとかき混ぜてみたが、思いのほか深いところまでヘドロが溜まっているらしかった。背中にみはるさんの視線感じながら、カワナは排水口に手を突っ込んだ。なかでは木の枝が、ワイングラスにセッティングされたポッキーの束みたいな格好で、落ち葉や虫の死骸を支えていた。それを引っ張り出すと、水が流れ始めた。手に取ったゴミを室外機の上に乗せていくと、水が渦を巻いて勢いよく吸い込まれていった。カワナはもういちどシャワーを浴びればいいやと思い、ベランダに膝をついて、泡を隅に押しやった。そのとき、彼は突然、途方もない空腹に襲われた。考えてみれば、前日のお昼から、カワナは何も食べていなかった。 もう一度シャワーを浴びて、服を着て外に出ると、みはるさんは朝にゼリーを食べたくせに、わたしたちはもう二十四時間なにも口にしていないと繰り返していた。カワナは、きみはひとりでゼリーを食べていたじゃないか、と言おうかと思ったが、黙っておいた。たいしてお腹の足しになるような量でもなかっただろうし、いずれにしても自分もみはるさんも同じくらい空腹であることは間違いなかった。事を荒立てるのはよくないと判断した。 携帯電話で調べると近所に有名な蕎麦屋があることがわかり、引っ越しといえば蕎麦だということで二人で出かける用意をしたが、靴を履いたところで午後には本棚とキッチンラックの配達があることを思い出した。二人とも家からいなくなるのはまずい。 「宅配やってないのかな、蕎麦屋」 靴を脱ぎながらカワナが言うと、みはるさんは「宅配の蕎麦は美味しくないよ」とそっぽを向きながら返事をした。美味しくないのは宅配専門の蕎麦屋の蕎麦で、美味しい蕎麦屋の宅配蕎麦はそれなりに美味しいのではないかと思ったが、そういうことをいちいち言っても楽しく議論することにはならないので言うのをやめた。二人で食べるごはんが平等に美味しくなかったときに、なぜか気を遣うのはカワナのほうなのだ。とにかくお腹が空いてしまったので、とりあえずみはるさんに、駅前のコンビニで何か買ってきて欲しいと頼んだ。お腹の具合がすでに蕎麦を食べるためのコンディションになっていたので、できればとろろ蕎麦がいいとお願いした。朝までの雨は止んでいたけれど、みはるさんは長靴に履き替えて出て行った。 みはるさんがいなくなってしばらくのあいだ、彼女が意味もなく外した洗濯機のホースの取り付けに悪戦苦闘していると、携帯電話が鳴った。とろろ蕎麦がコンビニになかったのかもしれないと思い画面を見ると、電話帳に登録がない携帯電話の番号だった。引っ越しの前後というのは、いろんな業者の知らない番号からしょっちゅう連絡がくるものだから、カワナはとくに気にせず電話に出た。 「もしもし」 マイクが不規則なリズムでなにかに当たっているような、ごつ、ごつという音がして、カワナは耳元から画面を離して番号をもう一度確かめた。十一桁の数字は上から下から眺めてみても、やはり知らない番号だった。こちらからもしもし、もしもし、と繰り返してみる。音の様子からいって、こちらの声は向こうに届いていないようだった。もしかすると、誰かがカバンのなかから間違って彼に発信してしまったのかもしれない。どこかのだれかの携帯電話の、小さなスピーカーから、自分の声がたよりなく漏れているところを想像した。なんだか寂しい気持ちになった。 電話の持ち主は混雑の中にいるらしく、周りの雑音が聞こえてきた。人がたくさん密集して、話をしながら行き交っているらしい。個別の会話の内容までは聞き取れなかった。音楽やアナウンスは聞こえないので、デパートや駅のホームといった場所ではなさそうだった。通話時間が三十秒を過ぎて、このまま電話を続けていたら、きっと通話料金がどんどん増えていって、あちらは迷惑するだろうと思った。ひと思いに切ってしまおうと考えたが、通話終了のボタンを押す手が止まった。こちらは電話をかけられたほうなのだから、こちらが料金について気を遣う必要もないように思われた。それに、むこうはなにか用事があって電話をしてきたのかもしれない。すこしだけ待ってみよう。スピーカーのボタンを押して、耳を離しても音が聞こえるようにしてから、こちらからの声が届かないようにミュートのボタンを押した。その一連の動作を素早くこなすと、緊張で肩が硬くなっていることに気づいて、ふうと声に出して息をついた。 カワナは携帯電話をベッドの上に放り出して、うたた寝をした。考えているうちに空腹で眠くなり、動けなくなってしまった。十分か、十五分ほど経ったころだろうか、川奈さん、川奈さん、と名前を呼ぶ声が聞こえた。携帯電話からの声だった。横になったまま手を伸ばして、スピーカーを切って耳に当てた。 「もしもし、川奈です」 カワナが返事をすると、 「突然お電話をしてしまい、申し訳ありません」 と、その声の主は謝った。すでに周りの雑踏は聞こえなくなっていた。それどころか、ピアノルームに閉じ込められたみたいに静かだった。どこか人気のないところに移動したらしかった。 「失礼ですが、どちら様でしょうか、あなたは」 カワナがそう尋ねると、その女性の声は黙った。数秒の間を置いて、 「美容室XXの、受付の者です。突然お電話をおかけしてしまい、申し訳有りません」 と返事をした。 カワナは記憶の引き出しを探ってみた。その美容室は二年ほど前から通い始めて、最近では三ヶ月前に、いちど散髪に行ったきりになっていた。カワナは美容に対してそれほど熱心な人間ではないため、一年に二、三回、義務的に髪を切りに行く以外はその美容室とも関わりがなかったし、今回の引っ越しを機に、もうそのXXに行く事もないだろうと思っていた。前は家から歩いて五分ほどの場所にあったのが、新しい住所から行こうとすると、一時間くらいかかってしまう。 カワナはその美容室のことを思い出した。三ヶ月前、担当の美容師との何気ない会話の中で「日本全国に美容室の数ってどのくらいあるのでしょうか」とカワナが尋ねると、担当の男は「えーと、三百くらいはあるんじゃないですかねえ」と、奇想天外なことを答えた。カワナは、男が「都内の美容室の数」や「全国の美容学校の数」などの質問と聞き間違えたのではないかと思い(その日、ふたりはずっと美容師という職業について話をしていた)、もういちど「日本全国の、美容室の数ですよ」と確認をした。するとやはり彼は「三百くらいはあるんですかねえ」と同じようなことを答えた。カワナはその言葉を聞いてどっとくたびれてしまった。三百なんていう数であるはずがない。人口が一億数千万を数える日本なのだから、少なくとも五万とか、十万くらいはあると想定するのが常識だし、ましてや彼は美容師なのだ。日本全国の八百屋の数を聞いたわけではない。彼が日々働いて飯を食ってる、まさにその業界のことを聞いたのだ。彼も美容師であるなら、知り合いの美容師だって何人かいるだろうし、美容学校にも通っていたはずだ。それなのに日本全国で美容室の数が三百なんて、そうしてそんな間抜けな答えがでてくるのだろうと、カワナは彼の目の前で大きなため息をついてしまった。その素っ頓狂な答えを聞いてから、もうこの美容師に髪を切ってもらうのはやめようと思った。そういう人間は、髪を三本切るつもりが、間違って三万本切ってしまう可能性がある。センスがないとは、そういうことだ。 電話で話をしながら、カワナはその彼のことを回想した。そのあいだ、受付の女はずっと黙っていた。カワナは電話の要件がなんなのか気になって、 「何かありましたでしょうか、忘れ物とか」 と声をかけた。数ヶ月前に行ったきりの美容室の受付の女性から電話がかかってくるケースというのをいくつか頭の中でシミュレーションして、とりあえず「忘れ物」という言葉を出してみた。〇九〇の携帯の番号からかけてきて来たということは、彼女は自分の携帯電話の電話帳に、カワナの番号を登録したのかもしれなかった。実際のところ、忘れ物であれば何ヶ月も待たずにすぐに電話をしてくるはずだし、そもそもカワナは何かを忘れたとか、失くしたと言われても思い当たる節は全くなかった。もちろん社会的にはルール違反だけれど、赤の他人のきまぐれに、いちいち文句を言うつもりもなかった。彼女が「そうです、忘れ物です」と言って適当な腕時計のブランドでも言ってくれれば、自分は「それはぼくのじゃありません、ごきげんよう」と言って電話を切ってもいいと思った。とりあえず、ちょうどいい室温で楽しむ、心地よい昼寝を続けたかった。寝ている間は空腹を忘れられる。すでにカワナは、電話を切らずにつなげっぱなしにしたことを後悔していた。 彼女は、 「忘れ物ではありません。川奈さんの電話番号を、勝手に自分の携帯電話のフォルダに入れてしまっていたんです。すみません」 と謝った。カワナは、まあそんなところだろうな、と思った。世の中には変な人がいっぱいいるのだ。彼女はすみませんと言いながら、とくに悪びれる様子もなかった。電話番号くらい勝手に知っていればいい。別にぼくは有名人でもないし、知らない誰かがぼくの情報を知ったからって、いちいち騒ぐようなプライバシーにうるさい人間でもない。 そのまま彼女は黙っていた。カワナから特に追求することはなかったので、カワナも黙っていた。しかしそれでは向こうが黙ったままで埒が明かないので、なんとか言葉をひねり出した。向こうからかかってきた電話の気まずい沈黙を埋めるために、どうしてぼくが頭を回転させる必要があるのだろう、と思いながら。 「実は、ぼくは引っ越しをしてしまいまして、もうそちらに伺うことはなさそうです。すみません」 「お店は閉店してしまいました」 彼女は待ち構えていたように、少し上ずった声ですぐさまそう言った。それに対してカワナはもちろん何も思わなかった。全国の美容室の数が三百だと思って髪を切っているような、間抜けな奴がいるからそういうことになるのだ、とむしろ納得がいった。 「そうですか」 「そうです。もう二ヶ月になります」 二ヶ月ということは、カワナが行かなくなってすぐに、あのお店は閉店したことになる。 カワナは前回、彼とのあいだにどのような会話が交わされたのか、思い出してみた。美容室の数について話をしたとき、美容師の彼はお店が閉店することを知っていたのかもしれない。あるいは、経営が傾いていることくらいは、分かっていただろう。ふたりは美容師という職業について話をした。美容師と話をするときにいちばん面倒がないのは、美容師という職業について話すことだ。美容師は美容師であるからして、美容師のなんたるかについては、彼らは語ることをたくさん持ち合わせている。これが「民主主義とマスメディア」なんていうトークテーマになると、美容師たちの脳みそはショートし、気まずい沈黙が支配したり、こちらが気を遣ってたくさん喋ることになりかねない。美容師とのおしゃべりが苦手だという人たちは、テーマの設定を失敗しているのだ。 彼はそのとき、美容室の経営事情について、とても熱心に語っていた。具体的には、いまの日本の美容室というのは、平日の昼にできるだけたくさんの高齢者を取り込みながら、それをうまいこと隠して、休日に単価の高いおしゃれな若者をいかに取り込むことができるか、それが大事だと言っていた。カワナは実に感心しながらその話を聞いていた(だからこそ、その後の美容室が日本に三百件という発言で途方もなく脱力してしまった、ともいえる)。それとは別にもうひとつ、美容師でないと入ることができない美容道具の専門店が合羽橋にあると、彼は教えてくれた。その話も非常に興味深かった。日本美容室連盟のようなところに加盟した店舗の美容師でないと入ることができず、各店舗に二名分だけ発行される身分証明の書類を入り口で見せて、入店するらしい。なかにはハサミやクシが壁一面に、何万本も展示されている。圧巻ですよ、と彼は声に力をこめた。さりげなく入店しても気づかれることはないだろうけれど、怪しまれるといけないので、できるだけ平然を装うことが大切、と笑いながら教えてくれた。カワナはいつかそのお店に行ってみたいなと思った。 頭のなかがぼんやりし始めたところで、カワナは彼女との会話に意識を戻した。ずいぶんと長い時間、電話口の彼女は黙っていた。電話料金は向こう持ちなので、沈黙ももはやどうでもよくなっていた。空腹が常にカワナの意識の片隅にあって、体を動かすたびに、空っぽの胃のぷるぷるとした振動が苦痛だった。 「それで、ぼくにどのようなご用件でしょうか」 彼女は息を潜めているみたいだった。しばらくして、彼女はゆっくりと口を開いた(実際に口の動きを見ていたわけではないが、ゆっくりであろうことは簡単に想像ができた)。 「死のうと思っているんです」 それだけ言うと彼女は黙った。カワナは、自分でも驚くほど、その言葉を悠長に聞いていた。どうにもそれが現実だとは思えなかった。さきほどから、彼女の声には感情や生命力といったものがほとんど感じられなかった。それでふと、死ぬのにも死ぬのに必要なエネルギーというのがあって、こんなに声に力がないのなら、死ぬことすらできないんじゃないか、という気がした。それに、申し訳ないけれどあなたが死んでしまうことは、ぼくにとってなにか重要なことなのだろうか、とも思った。もちろん、そんなこと実際には言わなかった。心臓はいつもより少しだけ速く脈を打っていた。気がつくとカワナは、また美容師の彼のことを考えていた。何度か話をしたことのある彼が死にたいのだと言えば、自分も何かしら感じるところがあるのだろうか。 「申し訳ないけれど、今日はとても忙しいんです。昨日引っ越して来たばかりで、荷物を片付けたり、配達を受け取ったりしなきゃいけないから。もし死ぬのを止めてほしいのなら、一週間くらい待ってもらえないでしょうか」 カワナは淡々と伝えた。彼女の携帯電話にはなんとなく死にたいと思ったときに電話をかけるための男のリストが入っていて、今日たまたま自分が選ばれただけなのかもしれない。そういう面倒な性格の女のことを、カワナはこれまでにも何人か知っていた。 「池があるんです」 彼女は突然そう言った。 「池?」カワナは彼女が何を言い始めたのか理解できなかった。 「はい。とても汚くて、臭う池です」 「臭う池」 におういけ、なんとも嫌な言い方だ。 「もともと灌漑用に作られたらしい、人工的な池です。とても古いもので、都内にある私有地の竹林のなかで、誰も管理をしないまま、長いあいだ放置されています。その土地の持ち主のことをわたしはよく知っていますが、知り合いではありません。わたしは二年前にそれを見つけて、以来毎日足を運んでいます。天気がいい日が続いても、干からびることはないようです」 カワナは小さい頃から、実家の庭にあった池が大好きだった。池は、小さい頃から彼にとってなじみのある存在だった。カワナは彼女の言う池にも興味を持った。自分もその池に行ってみたいと思った。 どのくらい電話を繋げたままなのか、見当がつかなかった。突然電話が切られた。スピーカーから、通話の終了を知らせるツー、ツーという音がして、通話時間が表示された。四十三分十一秒。画面はすぐに暗くなって、自分の顔が反射した。なんだったんだろう、とカワナは思った。もちろん偶然なのは分かっていたが、カワナは昔から池が好きだった。父親が池に凝っていて、自宅の庭には、一階建ての平凡な住宅に比べて不相応なほど立派で大きな池があった。妹とよく池のほとりのベンチに座って話をしたものだった。カワナは漠然と、大学を卒業したら池に関わる仕事がしたいと思っていた。自分が他人よりなにか情熱を持って取り組むことができるものがあるとしたら、それは池以外にないだろうな、という気持ちがあった。でも、池という漠然とした存在を、自分の人生の生活の糧としてどのように落とし込むことができるのか、その時はまだわからなかった。 また電話がかかってくることもあるかもしれないと思って、携帯電話を枕元に置いたまま目を開けて横になっていた。それからしばらく経っても、なんの着信も入らなかった。 玄関のチャイムが鳴って、時計を見ると、三時十分になっていた。カワナはベッドの上で眠っていた。荷物が届いたのかと思い、玄関に出ると、みはるさんが立っていた。みはるさんは裸足だった。まさか、二時間以上裸足で外を歩いていたわけではないだろうな、とカワナは不審に思った。近所の住人から、変な人が引っ越して来たと思われるのが嫌だった。白い足のあちこちに泥や草がついて、くるぶしまで汚れていた。何が起こったのか尋ねようかと思ったが、やめた。みはるさんが自分から口を開いて説明をするべきだと思った。みはるさんは両手で抱きかかえるように、一足の長靴を持っていた。カワナは下駄箱の上に重なった、今朝ポストから引き上げてきた数ヶ月ぶんのチラシを整理するふりをしながら、黙っていた。 「蕎麦屋で蕎麦を食べてきた。川奈くんも行っておいでよ。今度はわたしが留守番してるから」 みはるさんは現代文の解答を読み上げる高校教師みたいに、なんでもないように言った。みはるは、自分だけが蕎麦を食べて満腹になったことについて、全く気に留めていないみたいだった。 「ふうん」 カワナは腹が立ったけれど、気にしていないふりをして言った。 「それにしても、二時間も、どこに行ってたの」 「だって川奈くん、電話に出なかったでしょう」 みはるが言った。 「わたしだっていろいろあるんだから」 そのいろいろを、できる限りお互いのために擦り合わせていくのが、同棲というものではないのか。みはるがいないあいだに、こちらにも色々あったのだ、とカワナは思った。しかし、言いたいことを言い合っても建設的な話はできないことくらい知っていたので、黙っておいた。 「それならさ、せめてぼくにも、何か適当に買って来てくれたりはしないのかな。ぼくがお腹をすかせて待ってることを、知っているんだから。みはるは朝にゼリーを食べたけど、ぼくは食べてないんだから」 「あ、そう。ゼリーのことだけどね。きっとああいうことは誰にでも起こりうることなんだよ。大切なのは、川奈くんの態度だと思う」 カワナは混乱した。いま、このタイミングで、みはるさんにゼリーについて話してほしくなかった。 「ゼリーの事を話すのはやめてほしいな」 カワナはみはるさんに背を向けて言った。 「みはるがいない間にぼくも考えたんだけど、ぼくはぼくなりに八年間、あの意味不明なゼリーと向き合って、バランスを保ってきたんだ。あのゼリーはぼくがぼくのやり方で対処する。これ以上、口を出さないでほしい」 カワナがそう言うと、みはるさんはカワナの背中をとんとんと突いた。振り返ると、みはるさんは顔色を変えずに、両手で持った長靴を差し出した。 「なにこれ」 その長靴は右足だった。左足はどこへ行ってしまったのだろう、とカワナは思った。 「サカナ」 みはるさんはそう言うと、腰をおろして玄関のたたきで両足をはたいた。そのまま爪先立ちでお風呂場に行って、すりガラスの向こうに消えた。シャワーの音が聞こえてきた。足を洗っているらしかった。カワナは呆然としたまま、受け取った長靴を両手に持っていた。長靴のなかはくるぶしのあたりまで水が溜まっていて、ずしりと重かった。匂いはなかった。突然、長靴がびくんと振動した。カワナは驚いて長靴を落としそうになったが、腰が引けながらもなんとか持ちこたえた。そのまま長靴をキッチンに持っていって、流しのなかに置いて上から眺めた。ちょうどかかとの部分に、魚の口のようなかたちが見えた。さきほどの振動から想像していたよりは、ずいぶんと小さな魚だった。 「どうしたの、これ」 カワナが尋ねると、風呂場からみはるが「拾った」と返事をした。 「道で?」 「うん。道で。正確には水たまりのなかで」 みはるさんは新しいバスタオルで両足を交互に拭いて、左右にバランスを傾けながらこちらに歩いてきた。「見せて」と言いながらカワナの身体に後ろから密着して、長靴の中を覗いた。彼女のシャンプーの新鮮な匂いがした。その密着には、カワナに対する悪意や苛立ちはまったく感じられなかった。カワナは、どうやら自分はさきほどからひとりで苛立っているらしい、と思った。少し落ち着く必要がありそうだった。 「水たまりでね、泳いでたの」 「水たまり?」 「うん。ほら、うちの前の道をしばらく行った先に、児童公園があったでしょ。そこの前の道が大きな水たまりになってて、その中を泳いでた。水たまりに魚が泳いてるの、初めて見た。このまま天気がいい日が続くと、水たまりが干上がって、泳げなくなって、死んじゃうと思ったの。だから長靴に入れて、連れて帰ってきた」 カワナはみはるさんの説明を黙って聞いていた。正直なところ、彼女の説明を真に受けていいものなのか、カワナには判断ができなかった。たしかに昨日から未明にかけて断続的に雨が降っていたので、道には水たまりができていることは想像ができた。しかし、その水たまりが、魚が泳ぐほどの深さになっているかどうかはよくわからなかった。それに、水たまりに魚が泳ぐ確率というものがあるとすると、一体どのくらいの確率になるのか、見当もつかなかった。おそらく、ものすごく低い確率であることには間違いないだろう。誰かが意図的に魚を放すか、河川が氾濫して魚が運ばれてくるか、そのくらいしか思いつかない。しかし昨日からの雨は、いずれにせよたいした量ではなかった。 「もう片方の長靴は」 「左足だけ長靴を履いて歩くと、すごく歩きにくいんだよ。だから、道に置いてきた」 カワナはそれ以上、なにを話せばいいのかわからなかった。頭を適切な速度で回転させようとしてみても、物事を冷静に整理するにはあまりにもお腹が空きすぎていた。みはるさんの表情は嘘をついているようには見えなかった。何かがあって意地を張っているようにも、それ以上の隠し事があるようにも見えなかった。だいたい、水たまりに魚が泳いでいたというような意味のわからない嘘を振りかざして、いったい何の得があるというのか、カワナには検討もつかなかった。それに、自分にはゼリーの一件があった。八年ものあいだ、毎朝冷蔵庫の中にゼリーが勝手に補充される現象にくらべれば、たった一回、水たまりのなかに泳いでいた魚を捕まえることくらい、あってもおかしくないような気がした。 ☆ そこまで話し終えたところで、カワナは黙って、喋らなくなった。私はスマートフォンの電源が切れたのかと思って画面を見ると、通話時間のカウントは順調にすすんでいた。私はインドミーを食べるタイミングをすっかり失ってしまっていた。インドミーはすでに湯切ってあって、汁なし麺なので、汁を吸って伸びたりはしない。冷めても美味しい。 「それで、カワナはその魚を食べたの?」 私が質問をすると、カワナはすぐに「食べなかった」と返事をした。 「みはるが持ってきたコンロには立派なグリルが付いていたし、その日の朝にガスも開通していた。準備は整っていた。ぼくは魚をグリルに入れた。みはるはただ後ろから見てるだけで、止めなかった。当時のぼくには魚の締め方はわからなかった。今だってわからないけど。生きたままグリルに入れてスイッチを押したら、その魚はすごく暴れた。うろこが飛び散って汚れるし、網が動いて、魚はなんども下の受け皿に落ちた。ぼくはそのとき、焼き魚を作るためには、生きたままグリルに突っ込むのではなくて、まずその魚を殺さなければならないことに気がついた」 私はその様子を想像して、とんでもない馬鹿だと思ったけれど、私だって魚を殺すのは嫌だから、そのままグリルに入れて熱で勝手に死んでくれるのを待つかもしれなかった。 「お年寄りに怒られそうだね。『なんだ、いまどきの若者は。魚のひとつも焼けないのか』」 「一理あるのかも」 「そう?」 「魚を締めることができたら、人生の幅が広がる気がしない?」 「しない」 「そうかなあ。海はもちろん、山で遭難しても生きていけるよ。山には池も川もあるもんね」 カワナは嬉しそうに言った。私はため息をついた。遭難して生きるか死ぬかの時には、私だって魚を殺すのが嫌だなんてことは言わない。手元に生きた魚があれば、すぐさま身近な鈍器で頭を叩き潰すだろう。それより、どうやって魚を捕まえるかが問題だ。「あなたお腹が空いているでしょう、ぜひわたしを食べてください」なんて魚はいない。 「あのね、海も山も行かないから。関係ないけど、私は焼き魚をこれみよがしに綺麗に食べる奴が嫌いだったよ、昔から」 「そんな奴いた?」 「いなかったかもしれない」 私は、彼の妹のことを考えていた。そのころ、彼の妹はまだ生きていたかもしれないのだ。こんなことはカワナには言えなかったけれど、十年という月日が経った今では、いろいろなことが遅すぎる。 「ねえ、それで、その魚はどうしたの?」 「それが、よく覚えてないんだ。そこから先は、どうしても思い出せない。グリルから取り出して、長靴の中に戻したと思うんだけど、どこかの池に逃がしたのか、それともそのままベランダにでも放置して、死なせてしまったのか」 二人がちゃんと池を見つけて、魚を逃がしてくれていたらいいなと思った。私はとてもお腹が空いていたので、こんどまたゆっくり話を聞かせてよ、と適当なことを言った。カワナは最後に、聞いてくれてありがとう、と感謝の言葉を述べた。電話を切ったとき、すでに日付が変わっていた。私は、カワナのことを好きだったころの気持ちをほんの少しだけ思い出して、インドミーを食べるのをやめた。ソイラテだけ飲んで、歯を磨いたら、今日はなるべく早めに眠ることにした。