佳恵が言うには、サミュエル・L・ジャクソンに真ん中のLはなかったらしい。 「私、別に映画がそんなに好きなわけでもないでしょ。ブラッド・ピットとか、ほらあのひと、クルーザーみたいな名前のおじさん」 佳恵はいつも通りの早口で、まるでクイズを出すみたいに尋ねた。 「ジョージ・クルーニー?」 「そう、そのジョージ。クルーニーの。ああいう人のことを言われても、顔だってうまく浮かばないんだから」 目の前に運ばれてきたスパゲティに気をとられながら、梢は適当に相槌を打って話を聞いていた。佳恵はさっそくフォークを手に取って、冷製パスタをくるくると絡め取った。爪に塗られた厚みのあるマニキュアが、ソースの上に盛られた赤い唐辛子と重なって見えた。 その日は祝日で、地元の『チテンゴ』という名前のスパゲティ専門店で向かい合ってランチを食べていた。前に会ったのが二月で、そのときもチテンゴでランチをした。落ち着いた雰囲気で、店員の愛想もいい。二人が高校生のときにオープンしたので、もう二十年以上続いているお店だった。いつも地元の人たちで賑わっていて、なかなかの人気店らしかった。 佳恵と会うのは半年ぶりだった。梢の仕事はシフト制で、土日にも勤務がある。佳恵の仕事は土日休みだけれど、ほぼ毎週末、地元の神社で観光客に境内の解説や、祭りや催しの案内をするボランティアをしていて忙しい。たまたま前日になって二人の予定が合ったその日は、とにかく暑い日で、外ではセミが鳴いていたけれど、店内には涼しげなクラシック音楽が流れていた。 梢はいつもと同じように、ほうれん草のクリームスパゲティを注文した。佳恵はいつも、期間限定のメニューを注文する。その日頼んだメニューも、「海鮮ピリ辛ビビン麺パスタ」という個性的な名前の新メニューだった。 「それでも、サミュエル・ジャクソンのことは知ってたのよ。なぜかっていうとね、昔の恋人がサミュエル・ジャクソンそっくりだったの」 ブラッド・ピットの顔が浮かばない人が、よくサミュエル・ジャンクソンなんていう俳優のことを知っているなと感心した。二人はカタカナの人名を覚えるのが大の苦手で、世界史のテストには苦労したものだった。アレクサンドロス大王もエイブラハム・リンカーンも、まるで魔法の呪文のように聞こえて眠くなる。佳恵とは中高一貫の女子校時代からの仲だけれど、彼女がそんな俳優みたいな顔立ちの恋人と付き合っていたとは知らなかった。社会人になって、おたがいしばらく疎遠だった時期もあったから、その時期に付き合っていた人なのだろう。 「付き合ってたとき、ふたりでよくサミュエル・ジャクソンの映画を借りに行ったの。サミュエル・ジャクソンが画面に出てくるたびに、いちいちおかしくて笑い転げて。本当にそっくりなのよ。映画はね、人がたくさん死ぬやつ。あ、でもサミュエル・ジャクソンは死なないわよ。ああ、わたしの人生のなかで、たぶんいちばん口に出した外国人の名前だと思う、サミュエル・ジャクソン。だから自信があるの。彼の名前にLはなかった」 佳恵があまりに自信満々に言うものだから、気になってきてスマートフォンで調べてみた。「サミュエル」と検索窓に入れたところで、予測候補に「サミュエル・L・ジャクソン」が出てきた。「L、あるけど」と言って見せると、画面にまったく顔を向けないまま「今はね」と言った。画像検索をしてみると、てっきり白人だと思っていたが、サミュエル・L・ジャクソンは黒人だった。その昔付き合っていた恋人というのは黒人だったのか、聞こうとしたけれど、やめておいた。佳恵が外国人と付き合うわけがない。学生時代の英語の成績は散々たるものだったのを知っている。それに、サミュエル・ジャクソンに似ているという評価について冷静に考えてみると、日本人だからそういうふうに形容するのであって、黒人と付き合ってその人がサミュエル・ジャクソンに似ているというのは、すこし変な気がする。 「いつ、Lがあることに気がついたの?」彼女がパスタを飲み込むのを待ってから尋ねた。 「そんなの、つい昨日よ。テレビでアベンジャーズがやってたから、見てたのね。最後に、吹き替えの人のテロップが出てくるじゃない、いつもはラストシーンが終わったらすぐ消しちゃうんだけど、昨日はぼうっとしながら見てて、そのときに気づいたの。『なに、このLは。こんなの昔はなかったはず』って」 彼女の話を聞きながら、梢は画像検索をやめて、「サミュエル・L・ジャクソン L」でキーワード検索をしてみた。それでも、彼の真ん中のLについて言及しているページは見つからなかった。佳恵に「ちょっと待ってね、いま検索してるから」と伝えて、「サミュエル・L・ジャクソン L 意味」で検索した。それらしき情報は見当たらない。「サミュエル・L・ジャクソン L 時期」で検索してみても、結果は同じだった。次回作の公開時期、デビューした時期など、望んでいない結果ばかりが並んでいる。当たり前だけど、インターネットというものは、誰かがページを作ったものでなければ、検索でヒットしないのだ。誰も彼の名前のLの存在を気にしていないようだった。Lはもう、当たり前のようにそこに存在していた。 「考えてみれば、なんであそこにLが必要なんだろうね」 梢はなぜか、Lの必要性について口走っていた。そんなもの本人が付けたかったから付けたのだ、と心の中では思いながら。 「サミュエル、の部分に、もうすでにエルがあるじゃない? それなのにどうして、真ん中にLをもう一個入れたのかなあ。そんなことしたら、エルが被って、途中がエルエルになるでしょう。語呂が悪いと思わない?」 「そんなことわたしに聞かれてもねえ。栄太さん、いまハリウッドで仕事してるんでしょう。聞いてみてよ、Lについて」 「ちょっとまって。わたしのお兄ちゃんは、ハリウッドじゃないってば。テキサスのヒューストンだよ」 「同じようなものでしょう」 佳恵はあっけらかんと言う。 「ハリウッドは西海岸でしょう。ヒューストンはメキシコ湾に面してる」 「え、ヒューストンってメキシコなの?」 メキシコ以外だってメキシコ湾に面していてもいいはずだ。韓国だって日本海に面しているし、マレーシアから南アフリカまで、たくさんの国がインド洋に面している。地理の成績に関しては、佳恵より梢のほうが優秀だった。昔から地図を見るのが好きなのだ。実際に足を運ぶのはめんどくさいけれど、地図を見ると行った気になれるのがいい。 「うちの兄は、映画館の広告をセールスしてるだけで、別に映画を作ってるわけじゃないから」 「へえ。でも、もうアメリカに住んで長いんでしょう。それなら、サミュエル・ジャクソンのLについて、何か知ってるかもしれない」 兄の栄太がアメリカに行って、もうかれこれ二十年以上が経つ。これまでに二度、遊びに行って短期で滞在したことがある。いい機会だと思って少しだけ英語を勉強したけれど、向こうの人との会話となると、いつも栄太の通訳が必要だった。 「ねえ、どうしてLがそんなに気になるの?」 梢は笑いながら、佳恵の顔を見た。 「単純に気になってるのよ、どうして自分の名前に突然Lを入れたのか」 どうやら佳恵は、昔はLがなかったと完全に決めつけているらしい。佳恵にとっては、彼がいつのまにか名前にLを入れたのは確定で、ただLを入れた理由が知りたいのだ。梢はなんとなく、サミュエル・L・ジャクソンには、最初からLがあったんじゃないかという気がした。ざっと調べても改名したというニュースは出てこないし、なんとなく、サミュエル・L・ジャクソンという名前の俳優が、昔からいたような気がした。 「ねえ、それおいしい?」 話題を変えるために尋ねると、佳恵はすぐに「一口あげるよ」と言って店員に取り皿を持ってくるように頼んだ。梢は正直いらないなあと思っていたけど、佳恵は背筋を伸ばして、皿の上に半分くらい残ったパスタの一部を巻き取った。その動作を見て、梢は佳恵の手元の動きがおかしいことに気が付いた。 フォークの回転が、反時計回りなのだ。 ためしに、自分のフォークをさりげなく反時計回りに動かして、クリームスパゲティを巻いてみる。巻けないことはないが、やはり見た目も感覚も、どこか変な感じがする。佳恵のことだから、また妙なことにトライしているのかもしれない。たとえば、脳トレの一種なのかもしれないし、若返りのためのおまじないなのかもしれない。 佳恵はひとまきのスパゲティを取り皿に移して、その上にイカとキムチと水菜を乗せた。梢は受け取ってすぐに食べた。「どう、美味しい?」と聞かれたので、「うん、いいね」と言って右手の親指を立ててサムアップした。本当は味のことなんて、ほとんど考える間もなく飲み込んでしまった。梢は水菜が苦手だった。佳恵は満足そうに頷いて、 「食べていいよ」 とスパゲティの大皿を、そのまま梢のほうに少し寄せた。まだ半分は残っている。佳恵が少食なのはいつものことだ。いつもは加勢することもあるけれど、「ごめん、わたしももうお腹いっぱい」と断った。自分のクリームパスタだって食べきれず、残してしまいそうな気がしていた。三十歳を過ぎて、クリーム系の食事がかなりしんどくなってきた。食べてる時はまだいいが、たまに夕方までずっと胃が重くて、晩御飯が食べられなくなってしまうことがある。 「もうお腹いっぱいなの? あんたねえ、いい歳してクリームスパゲティなんか頼むからだよ」 自分のことを棚に上げて、佳恵がケタケタと笑う。 「それにさ、いっつもそれじゃん。なにかのこだわり?」 梢は別に、ほうれん草のクリームスパゲティにこだわっているつもりはなかった。佳恵はいつも新しいものを探す。梢はこれまでに見つけたもので満足する。もともとの性格の違いだった。そのせいか、佳恵はいつも年齢より若く見えた。世の中の男性からしたら若いということもないんだろうけど、少なくともわたしよりはましに見えているのだろう、と梢は思った。 結局、二人ともスパゲティを残して、歳を取ったものだ、なんて言いながらコーヒーを飲んだ。いまでは考えられないけれど、高校生のころは、二百円増しで大盛りを頼んだこともある。 「いろんなことが変わっていくねえ」 佳恵が言った。 「わたしたちはおばさんになって、思い出のスパゲティは食べられなくなって、サミュエル・ジャクソンはいなくなっちゃう」 コーヒーも飲み終わると、それぞれ自分の家に帰ることにした。愛想のよい五十歳くらいの女性の店員が、会計を終えたところでミントキャンディを手渡してくれた。梢はそれを鞄のポケットに入れて、店の外に出た。 さっきまで見えていた太陽がぶ厚い雲にさえぎられて、早めの夕立がきそうな空模様だった。別れ際、佳恵は「また、すぐにね」と言った。梢も「またすぐに」と返事をして、駐車場に停めた自分の車に向かって歩いた。車に乗り込んでエンジンをかけたとき、佳恵もすでに彼女の車に乗り込んで、運転席で顔を下に向けていた。梢はハンドルを左に切りながら、最後にもう一度微笑みかけたけれど、フロントガラスの向こうにいる佳恵は、携帯電話を触っているみたいで、顔をあげなかった。 県道三十一号線をまっすぐ走りながら、もしかしたら、彼女はサミュエル・ジャクソン似の昔の恋人と、もう一度やり直したいのかもしれない、と思った。彼女が昔の恋人にメールを送っているところを想像した。 『お久しぶりです。サミュエル・ジャクソンがサミュエル・L・ジャクソンに改名しましたね。よかったら久しぶりに、ご飯でもどうですか。』 音楽もラジオも流さずに走り続けた。空はどんどん暗くなっていって、車通りも少なくなっていった。星ヶ丘入口の交差点まで来たところで、いつもの習慣でセブンイレブンの駐車場に入った。入口のすぐそばに車を停めて、財布を持って店内に入った。 レジに立っている店員が、いらっしゃいませと声をかけてくる。もう十年以上毎日のように通っているせいで、顔を覚えられているのではないかと思い、梢はいつもレジの前を避けて窓際の通路を歩くようにしていた。どうせ商品の会計のときには顔を合わせるのだから、普通にしていればいいのだけれど、と思いながら。 棚にはサプリメントや生理用品なんかが置かれていて、反対側の窓沿いには月刊誌がずらりと並んでいる。突き当たりがトイレになっていて、洗面台がこちらに向いているので、鏡が見える。これもまたいつもの癖で、遠くから歩いてくる鏡のなかの自分に目をやる。なんてことはない、いつもと変わらない自分が映っていた。 ☆ 「ああ、サミュエル・L・ジャクソンな。彼はとにかくたくさんヒット作に出てるから、俺らセールスの人間にとってはいい名前だな。それで、サムがどうした」 栄太は車を運転していたらしく、すぐに電話に出た。梢は寝室を出て、ダイニングの椅子に腰掛けた。サミュエル・L・ジャクソンのことをサミュではなくサムと呼ぶのは少し変な感じがしたけれど、アメリカ人にとっては普通のことのなのだろうから黙っておいた。 彼はいらいらしていない様子で、梢は安心した。電話を発信する前に、あらかじめヒューストンの時刻と気温を調べておいた。日本とヒューストンの時差は十四時間で、日本は夜の十一時だから、ヒューストンはまだ朝の九時だった。彼がアメリカに行って二十年以上経つが、いまだにむこうが何時なのか、すぐに計算ができない。うっかり夜中に電話をかけたら大変だ。お前には国際感覚というものがないのかと、説教を聞く羽目になる。 気温を調べたのは、栄太は昔から汗かきで、暑い日に電話をかけると、すぐに機嫌が悪くなるからだった。ヒューストンは一日じゅう晴れ、気温は三十六度らしかったが、車のなかなら安心だ。外を歩いていると、一分とたたないうちに「暑いから切っていいか」と聞いてくる。携帯電話を頬にべったりとつけながら会話をするのが不快なのだろう。それならイヤホンか何かを使えばいいと思うが、彼はそういうタイプの人間ではない。暑くて不快だと文句を言いながら、携帯電話を耳に押し当て続けるようなタイプだ。進歩がないのだ。 「わたしの友達が、サミュエル・L・ジャクソンはひと昔前までLがなかったはずだって言うんだけど、そうなの?」 栄太は、はは、と軽く笑ってすぐに言葉を返した。 「さあ。俺の記憶の限りでは、ずっとLがあるけどな。少なくとも、九十四年の『パルプ・フィクション』からは、ずっとLが付いているはずだ。その友達ってのは、映画に詳しいのか?」 どうやら今日は機嫌が良さそうだ。それにしても、すぐに映画の公開年とタイトルが出てくるのは、さすが映画業界の人間だ。もっとも、その映画がどのくらい有名なものなのか、梢にはよくわからなかった。 「いや、そんなに詳しくないはず。佳恵だよ」 「ああ、佳恵ちゃんか。昔たまに遊びに来てた子だろ。まだ仲いいのか。相変わらずだな」 「おかげさまで」 進学したり就職したりして、若い人は地元からいなくなる。小学校の同級生で、いまだに地元を離れていないのは、佳恵と梢くらいのものだった。 「あの子、結婚したのか?」 「してない。なんで?」 「なんでって、野球部のキャプテンと付き合ってただろ」 「いつ?」 「いつって、そうか、あれは中学のころか」 「とっくの昔に別れてるよ、そんなの」 「残念だな」 ほんとうに残念そうに栄太は言った。佳恵が地元の高校の野球部のキャプテンと付き合っていたのは、中学の話だ。栄太は高校を卒業して、すぐにアメリカに渡った。彼のなかで、佳恵は中学生のままらしかった。 「佳恵ちゃんって、誰よりも早くどこか他所に行きそうな感じだったけど、そういう子に限っていまだに地元にいるのは不思議だな。まあそんなことより、お前はうまくいってるのか」 「なにが」 「なにがってお前、結婚生活に決まってるだろ。ちゃんと賢治さんの言うことを聞けよ。腹のなかでなにを思おうが勝手だから、表面上だけでも言うことを聞いておけ」 はい、はいと適当に受け流す。賢治は婿養子に入って、梢の両親と一緒に暮らしていた。いつも肩身の狭い思いをさせているが、文句ひとつ言ったためしがない。よくできた旦那だった。 栄太の奥さんはアメリカ人だ。梢が最後にアメリカに遊びに行ったのが七年前で、そのときはまだ栄太は独身だった。彼らがいったい、どんな夫婦生活を送っているのか、梢は想像すらできなかった。 ほんの数年結婚するのが早かったというだけで、梢が結婚するとき、栄太はこれでもうハラを決めろとか、男のハラを空かせるなとか、偉そうなことばかり言ってきた。高校のときの栄太は今よりずっと知的で、穏やかで、なによりハラではなくアタマでものを考えていたような気がする。それがいつのまにかハラだハラだと言うようになった。アメリカ人はそんなにハラで物事を考えるのだろうか。 「お前みたいなやつに、賢治さんはほんとうにもったいないんだからな。肝に命じておけよ。賢治さんに愛想つかされたら、お前はもう二度と結婚なんてできなくて、孤独に死んでいくだけだからな」 お前もな、ユートゥー、と梢は心の中で中指を立てた。たしかに、どうして賢治みたいなちゃんとした人が婿入りしてくれたのか、こればかりは世にも奇妙な縁があったと思うしかなく、梢には不思議でもあった。賢治は栄太と同じ営業の仕事をしているけれど、ふたりはまったくキャラクターが違った。栄太は体育会系で、快活で、いかにも営業マンという感じがする。賢治はその真逆だった。 「それで、サミュエル・L・ジャクソンのLは、いまに始まったことではないのね」 梢は話を本題に戻した。 「ああ。昔からある。こっちの俳優は、そんなにころころ名前を変えたりしない。それにあのLは、つのだ☆ひろの☆とはわけが違うんだぞ」 「そうなの? どういうこと」 ☆とLではなにもかも違うではないか、と思いながら、梢は聞き返した。 「あれはミドルネームのイニシャルをとったものだ。ルシウスとかリンカーンとかレイソンとか、そういうミドルネームなんだろう。彼がデビューするときに、きっとハリウッドに似た名前の役者がいたんだろうな。あるいは、そっくりそのままサミュエル・ジャクソンっていう名前の別の俳優が、すでにいたのかもしれない。そういう場合にはあとから来たやつがミドルネームを入れたりして、区別する必要があるんだ」 梢はふうむ、なるほどね、ありがとうと礼を言って、電話を切ろうとした。あまり長く話すと機嫌が悪くなるかもしれないから、ほどほどで切り上げるのが得策なのだ。 「めずらしく電話してきたと思ったら、本当にLの話しかないんだな。この歳になると、電話のたびに親父とお袋になにかあったのかと思って、俺なりに緊張してるんだぞ。あ、そういえば、俺のほうにも言ってなかったことがある」 栄太が両親を放り出して、アメリカなんかで気楽に生きていられるのも、わたしが婿入りしてくれる夫を見つけて実家で暮らしているからだぞ、と心の中で得意げになってみる。 「マンディが妊娠した」 マンディというのは栄太の奥さんの名前だ。この場合、子どもというのはもちろん栄太とマンディの子どもだろう。 「おめでとう」 梢が言うと、彼は笑って、「なんだその反応は」と言った。 「なんだ、もなにもないよ。おめでたいことじゃん」 とっさにうまく反応できなかったのは、兄の口から妊娠という言葉が出てきて、不意を突かれたからだった。梢は、夫婦で不妊治療をしていることを、家族には言っていなかった。不妊治療といっても、病院に通うような本格的なものではなくて、自分たちで色々と試しているだけだ。栄太はいつも、梢にできないことをひょうひょうとやってのける。まるで何も考えてないみたいに。たぶん本当に何も考えていないのだろう。梢はマンディが妊娠したと聞いて、嬉しかった。本当におめでたいことだと思ったし、両親はもっと喜ぶだろう。なにしろ初めての孫なのだ。 「ガキが生まれてからでいいから、一度こっちに来いよ。賢治さんも一緒にな。お前が最後にこっちにきてから、もう七年になる。俺はちゃんと数えてるんだ」 「自分の布団じゃないと眠れないんだよ」 梢が文句を言うと、「面倒くさいな、まったく」と栄太は笑った。 自分の布団じゃないと、というのも嘘ではないが、梢が勤めているのは中高一貫校の寮の食堂で、およそ三百人の生徒に、年中無休で朝、昼、夕の食事を作っている。朝食と昼食は約十人、夕食は多いときで二十人体制で作業を分担する。 役職のない平和な立場のはずなのに、誰よりも長く勤めているせいで、たまに土日の献立を考えさせられたり、何かと重宝されていた。平日は業者が献立とメニューを請け負って、食材の配達までしてくれるけれど、土日は自分たちで全て切り盛りしなければならないので忙しい。学校がない日も生徒は寮に住んでいるので、平日と変わらない人数分の食事を作る必要がある。 業者に任せることができないのは、地元の農家や支援者のしがらみがあるらしいけれど、下っ端の梢にはよく分からなかった。 「じゃあな、切るぞ」 最後にそう言って、彼は電源を切った。 とにかくサムの名前にはもとからLがあった。少なくとも、一九九四年のパルプ・フィクションからずっと。今度佳恵に会ったとき、このことを話そうと思った。 ☆ 佳恵がいなくなったと気がついたのは、秋も終わりを迎えて、冬になるころだった。そろそろまた会ってご飯を食べようと思って、メールを送ったものの、一週間待っても返事が来なかった。佳恵は届いたメールは毎日チェックしているはずなので、不思議に思って数年ぶりに彼女の家の固定電話をかけてみると、番号不通のアナウンスが流れた。携帯の番号は登録していなかった。それでも梢は、彼女の実家の場所を知っていたので、時間があるときに訪ねて行こうと思い、そのまま数週間が経った。 早番の土曜日に、母親に少し帰りが遅くなるから晩御飯はいらないと連絡して、近所の和菓子屋でお米チップスを買って、彼女の家に車で向かった。 梢と佳恵は、星ヶ丘という住宅地に住んでいた。星ヶ丘は一九六〇年代に施工された戦後の新興住宅地で、むかしは区画ごとに三つの小学校があったという話だが、二人が小学校にあがるころは最盛期にくらべて子供の数がかなり減っていたので、すでに一つの小学校に統合されていた。 道に迷うと嫌なので、いちど自宅の前まで戻ってから、慣れ親しんだルートで佳恵の家まで向かうことにした。佳恵の家は直線距離で二キロくらい離れている。星ヶ丘は、もともとあった小高い丘を切り崩したせいで高低差があり、等高線上にうねうねと伸びた道を進む。すでに日は落ちて、あたりは暗かった。歩行者の影に気をつけながら、ゆっくりと運転する必要があった。 梢は嫌な予感がしていた。小学生のときから二十年以上、佳恵と親しくしていて、彼女がこんなふうに連絡を絶ったことは、一度もなかった。 途中で二度、見覚えのない道に出てしまい、一度めは小学校まで、二度めは公民館まで戻ってルートを取り直した。最後に佳恵の家に遊びに行ったのは、高校三年生の夏だった。とても暑い日で、汗だくの梢が自転車に乗って彼女の家に着くと、母親がサイダーを出してくれた。 車に乗り始めてからは、職場と反対方向に用事があったり、道路工事で迂回しなければならないとき、年に一度くらい彼女の家の前を通ることがあったけれど、立ち寄ったことはなかった。佳恵はひとりっ子で、両親と三人で暮らしているはずだった。 ようやく佳恵の家の前に着いてみると、その場所にはすでに新しい家が建っていた。二階建てで、白塗りの一軒家だった。二車線の道路は車通りもまばらな時刻だったので、交差点から少し離れた場所に車を停めて、インターフォンの前に立った。 そこに書かれていたのは「KATO」という文字だった。銀色の郵便受けに筆記体で書かれていたそれは、佳恵の名字ではなかった。門柱のあいだに挟まれるようにして、観音開きのゲートの左側が、玄関のほうに押されてすでに大きく開かれていた。もう一度あたりを見回す。佳恵の家は見晴らしの良い角地にあって、はす向かいに個人経営のタバコ屋がある。濃い緑色のビニールでできた雨除けに、「松尾商店」という白塗りの文字がぼんやり浮かんでいた。家の中は暗く、車一台分の駐車スペースが空になっているところを見ると、KATO家は家族で食事にでも出ているらしかった。 もしかすると、佳恵は結婚して、苗字を変えたのかもしれない。しかし、結婚して、苗字を変えて、家を建て替えて、わたしに教えないということがあるだろうか。 梢は二年前に賢治と結婚してから、佳恵とのあいだでは結婚や家庭の話題を意図的に避けていた。佳恵は、昔から恋人の数は梢より多かったけれど、結婚や家庭を持つことについてはどちらかというと否定的で、一人で生きていくことを肯定していた。 梢は自分の車の運転席に戻って、真っ暗な車のなかで佳恵と最後に会ったスパゲティ専門店のことを思い出していた。あの日は彼女の最近の仕事と昔の恋人の話をいくつか聞いて、それからサミュエル・L・ジャクソンについて相談を受けて、家に帰った。はっきりと記憶にあるのはサムについての会話くらいで、ほかに大したことは話していないはずだった。別れ際の佳恵にも、とくに変わった様子は見られなかった。店員からミント味のキャンディを手渡されたことを思い出した。鞄のポケットに手を入れると、キャンディは何度か溶けたり固まったりを繰り返したようで、袋の中で潰れていた。街灯の明かりの角度によって、包み紙は緑から青に色を変えた。 そのとき、対向車線のヘッドライトが車内を白く照らした。 梢は眩しくて目を閉じたけれど、すぐに右手で庇を作って、すくい上げるようにその車を見た。車はこちらを不審に思っているようで、なめるようにライトをスライドさせながら、そのまま表札にKATOと書かれた家のガレージに吸い込まれていった。 そのとき梢は、助手席に座った女性の横顔をかろうじて捉えることができた。小さな顎の形が佳恵に似ているようにも見えたけれど、佳恵にしては髪が長いように思えた。車は彼女が長年乗っていた日産のマーチではなかった。形は似ているがツードアで、うしろから見る姿がぼってりとしていた。四角形のエンブレムは日本の車ではなく、外国車のようだった。梢はその車がガレージに入っていくのを見届けてから、すぐにエンジンをかけて車を出した。彼女の車のエンジン音が止まって、あたりが静寂に包まれるのが怖かったのだ。 ☆ 帰りは一度も道に迷わなかった。家に帰り着いたとき、時刻はすでに八時を過ぎていた。梢はすぐにシャワーを浴びて、父と母がテレビを見ているダイニングを避けてテレビの部屋に行った。 テレビは他の部屋にもあるのに、居間だけが家族のあいだで「テレビの部屋」と呼ばれている。梢が生まれたころ、家の中で唯一テレビがあったのがこの部屋だったらしい。築四十年を超えた自宅は確実にボロになってきて、両親がまだ元気なうちに建て替えたほうがいいのだろうけれど、次世代を担う梢たちに十分な収入がないのが問題だった。 賢治はソファに寝そべって本を読んでいた。テレビの電源は切られていた。梢は無言で彼の両足を背もたれのほうに押しのけて、ソファに浅く座った。梢はお腹が空いていた。母親に夕食は要らないと断ったことを後悔していた。自分の部屋からお米チップスを持ってくると、賢治はすでに歯を磨いたくせに横から手を出してきた。梢がさくさくと音を立てて食べるものだから、我慢できなくなったらしかった。 「佳恵さんとは会わなかったの?」 賢治は佳恵には会いたがらないけれど、佳恵の近況は気になるらしく、たまに「佳恵さんはどうしてる?」と聞いてくる。 梢は賢治に、佳恵とは夏に会ってから連絡が取れなくなっていること、自宅に行ってみたら新しい家が建っていて、表札が違う人の苗字になっていたことを伝えた。話を面倒にしたくなかったので、サミュエル・L・ジャクソンのことと、ガレージに入っていった車のことは言わなかった。賢治は、梢が予想していたより大して気に留めていないようだった。 「彼女の職場はどこなのか、知らないの?」 賢治が尋ねた。彼女は地元の小さな化粧品会社でマーケティングの仕事をしているはずだけれど、具体的な場所や名前は聞いたことがなかった。佳恵は梢と違って、気づいたときにはたまに転職しているし、いまの会社も何度か社名が変わったはずだった。 「共通の友人は?」 「実家に残ってるのは私たちくらいだよ」 「そうか」 お米チップスを食べる手が止まらない。 「とりあえずさ、もう一度彼女の家の前に行って、ピンポン押して、確認すればいい」 賢治はなんでもないように言った。 「もし知らない人が出てきたら、どうするの?」 「前にここに住んでいた家族がどこに行ったのか知りませんか、って聞けばいい。星ヶ丘の三十六番地に住んでて、小学校で同級生だったって言えば、なにか教えてくれるかもしれない」 梢は黙って賢治の話を聞いていた。 「最後に会ったとき、何か変わった様子はなかった? スパゲティを食べたんでしょう、お店で」 「とくに、普通だった。いつもと同じ」 梢はスパゲティのことを思い出していた。佳恵はスパゲティを反時計回りに巻いていた。 「そういえば、話した内容は普通だったけど、スパゲティの食べ方が変だった」 「食べ方?」 賢治は怪訝そうに眉をひそめた。 「スパゲティをね、反時計回りに巻いていた」 「それは謎だな」 目を閉じて、顔を天井に向けて、眉間に人差し指を押し当てた。そして、何かを思いついたように、 「頼んだメニューは?」 と尋ねた。なんだか探偵みたくなってきたと思いながら、「海鮮ピリ辛ビビン麺パスタ」と答えた。あの珍妙な名前がしっかりと記憶に焼き付いていたことに、自分でも驚いた。賢治は笑っていた。 「へえ、えらくくどい名前のパスタ。単純に、食べにくかったんじゃないの」 「名前が煩雑なだけで、普通のスパゲティだったよ」 梢も笑う。 「ねえ、明日そのお店に行ってみよう」 賢治が突然提案した。彼が自分からスパゲティが食べたいと言いだすなんて、めずらしいことだった。 「釣りは?」 「昼前には帰ってくる。お腹空かせておくよ」 賢治は休みの日には、ほぼ確実に釣りに行く。いそいそと未明に出かけて、だいたい十時から昼前ごろには帰ってくる。まさかそんなアクロバティックな時間帯に誰かと浮気をするわけもないだろうし、梢は完全に彼の行動についてノータッチだった。 結婚する前、二人がまだ付き合っていた頃、梢は一度だけ賢治の釣りについて行ったことがあった。 「ねえ、わたしを魚に例えると、どんな魚?」 釣りに夢中になって、全然相手をしてくれない賢治に適当なことを聞くと、 「シーラカンス」 とすぐに答えが返ってきた。あまりの速さに、この人は前からこっそりわたしのことをシーラカンスだと考えていたらしい、と分かった。 賢治は海に吸い込まれた釣り糸を眺めながら、無表情で「群れで行動するところ以外」と付け加えた。より厳密に梢をシーラカンスとして定義したいらしかった。シーラカンスが群れで行動して、梢が単独で行動するのか、はたまた梢が群れで行動して、シーラカンスは単独で行動するのかよくわからなかったけれど、それ以上聞くのも迷惑だろうと思って「なるほど」と言ったきり梢は黙った。 賢治が釣り糸を垂らしているあいだ、ひまで仕方がなかった。賢治は釣りの最中、ほんとうにぼうっとして、何もしなかった。口もききたがらないし、どうせ魚がかかれば気がつくのだから、音楽をかけたりゲームをしたりすればいいのに、それもしない。釣りをしているときの賢治は怖い。無表情で、遠くの世界の電波を受信している異星人みたいに見える。 「そのお店、うまいんでしょ?」 念を押すように賢治が尋ねる。梢は、美味しいと思う、と控えめに答えた。 「若い頃は胃もタフで、お金がなかったから、昼も夜も家でスパゲティを茹でて、安物のソースをかけて食べてたなあ。スパゲティって、家で茹でた方がうまいよな。お店で食べると、まずくて高いイメージがある」 梢はにやにやしながら、きっと彼はまずい付け合せのスパゲティしか食べたことがないんだろうな、かわいそうに、と思っていた。チテンゴのスパゲティを食べたら、きっと驚くはずだ。店内の九割が女性客だけれど、賢治さんだったら問題ないだろう。栄太だったら、絶対に不機嫌になるけれど。 賢治は佳恵がいなくなった謎を解きたいらしく、店員に佳恵さんのことを聞いてみようとか、佳恵さんが座ってたのと同じ席に座ってみようとか、そんなことを冗談半分で言っていた。ふざけているように見えて、佳恵が黙って姿を消したことについて、梢が落ち込まないように振舞ってくれているようだった。彼の反応を見ていると、かえって梢は佳恵に見放されたのであって、そのことを悲しむべきであるような気がしてきた。 ☆ その日の夜、梢は夢を見た。夢のなかで梢はサムに会った。 そのときはまだサムの映画を見たことがなかったので、彼の仕草とか、声とか、全体の縮尺みたいなものは、梢の想像上の産物だったけれど、サムはとてもリアルだった。 じつは、その夢を見て半年くらい経ってから、賢治とふたりでサムが出ている映画を見る機会があった。『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』という邦題の映画だった。そのときに初めて動いてしゃべっている実際のサムを見たのだけれど、夢の中に出てきたサムと大差なく、むしろかなり一致していた。 もっとも、その映画でのサムは敵の親玉みたいなポジションで、何にでも変身できる超能力があったうえ、よだれを垂らしたり、常時白目をむきだしにしているような状態だったので、夢のサムのほうが、ありのままのサムだったように梢にはおもわれた。夢の中でのサムは、雑誌のインタビューに答えるようなカジュアルな服を着て、梢といっしょにスパゲティを食べていた。寝る前に、賢治ともう一度明日の予定について話をしたせいで、そんな夢を見たに違いなかった。 梢とサムは、佳恵と最後にスパゲティを食べた時と同じテーブルに着いていた。レジのすぐ横にあるカウンターは空席だったけれど、テーブルは奥の座敷を含めてすべて埋まっていた。 梢の向かいに座ったサムは、すばやくメニューを眺めると、目線で店員に合図を送った。彼は英語ですばやく注文をしたので、内容を聞き取ることはできなかった。いつもと同じ、五十歳くらいに見える女性の店員は、何事もないように彼の注文を聞き取って、復唱もせず、今度は梢のほうをちらりと見た。思いのほか自分の順番が早く回ってきたので、慌ててほうれん草のクリームスパゲティを注文した。サムが「いいね」と言った。梢は、どうも、という顔をして軽く微笑んだ。店員はメニューを回収し、キッチンに戻って行った。 料理が届くまで、サムは丸い眼鏡をおでこの上に乗せて、上半身を少し後ろに反らしながら、やたら小さな携帯電話を、太い指でぽちぽちといじっていた。梢はぼんやりと窓の外を見ていた。分厚い曇り空が見えた。広い駐車場に、車がちらほら停まっていた。 長い沈黙にようやく慣れてきたころ、店員が「お待たせしました」といつもの笑顔でスパゲティを運んできた。それまで胃がチクチクと痛んでいたけれど、急に空腹を感じた。サムが「いい頃合いだ」と言った。 サムの目の前に置かれたスパゲティからは、チリソースの香りが漂っていた。オレンジ色のツヤのあるソースが全体にかかっていて、刻んだチーズと、赤い豆のようなものがいくつか載っていた。スパゲティに豆。さすがアメリカだ、と思った。梢のスパゲティは、いつもと同じクリームの香りがしていた。サムは右手でフォークを持って、スパゲティをくるくると巻き取った。「右利きなんですね」と梢が言うと、「両利きだよ」とサムはウインクをした。それを証明したいらしく、スパゲティを口元に運ぶと、今度はフォークを左手に持ち替えて、左手でスパゲティを巻いた。 「俺はもともと脇役俳優だから、画面のなかでは右側に立つことが多いんだ。そうすると右手で演技しなきゃならない。だから右手も利き手にした。もともとは左利きだったと思うけどね。いまではもう、両利きみたいなものだよ。どっちがオリジナルの利き手だったかなんて、忘れちゃったな」 サムは左手で時計回りにフォークを回転させていた。本人は得意げだったけれど、その手つきを見ていると、なんだかぎこちなくて、もどかしい感じがした。 「その、フォークを回すのは、時計回りでいいんですか?」 梢が聞くと、サムは「え」と驚いた声を出した。 「左手でフォークを回す時は、反時計回りの方がいい気がして」 サムは急に真面目な顔になって、何度かフォークを右手と左手に持ちかえて検証しているようだった。 「なるほど、フォークは右手のときは時計回りで、えっと、左手のときは反時計回りに回す方がいいのか。気がつかなかったな。その方がスムーズに見える?」 彼は身振りを見せながら尋ねた。梢はうんうん、とうなずいた。彼はあっという間に、左手で反時計回りにスパゲティを巻く技術を習得して、得意げな表情だった。 「ありがとう。俳優っていうのは、自分のあらゆる動きに責任を負わなければならない仕事だからね。きみのアドバイスが役に立ったよ。早くスパゲティが好物の、殺し屋の役をやりたいものだ。もちろん、主役でね」 サムは笑った。梢もはははと声に出して笑った。 「やっぱり専門店のパスタはうまいね」 次のひとくちをゆっくりと咀嚼をして、唇の周りに付いたソースを紙ナプキンで拭いながらサムが言った。 「イタリアにはこんなことわざがある。『タイマーが鳴ったからパスタが茹で上がるのではない。パスタはパスタにとっていちばん好ましいタイミングで、ひとりでに茹で上がるのだ』」 サムの言っている意味がよく分からなかったので、へへへと笑ってごまかした。サムは梢の曖昧なリアクションをまったく意に介さない様子で続けた。 「スパゲティは茹で時間がすべてなんだ。特殊な製法で早く茹で上がる麺もあるし、あらかじめ水で戻しておくようなテクニックはあるけれど、結局、普通の麺をたっぷりのお湯でしっかり時間をかけて茹でるという基本にはかなわない。ファミリーレストランのオペレーションでは、たったそれだけのことができない。なぜだかわかるか?」 わからない、と梢は答えた。サムにこの流れで「なぜだかわかるか」と問われて、「わかる」と返せる人間がいるだろうか? 「注文を受けてから五分も十分もかけて茹でるような真似をしていると、コストがかかりすぎる。定食屋なんかでは、作り置きが当たり前だ。ピークの時間が来る前に、あらかじめ茹でておいて、油を絡めてくっつかないようにしておくんだ」 へえ、と梢は口をすぼめた。 「ところで」 サムは咳払いをして、両手をテーブルの上で組んで尋ねた。 「君はもう一度、佳恵に会いたいのか?」 サムはこちらの目をじっと見つめた。まるで催眠術をかけられているみたいで、彼の目の中に吸い込まれそうだった。 「佳恵はわたしに会いたいと思っていますか?」 梢はサムに聞いた。 「そんなこと知らない。問題は、君がどうしたいかだ。俺は君の気持ちを聞いてるんだ」 サムは間髪を入れずに続けた。 「佳恵が君に会いたいかどうかは、関係ないはずだ。知っているとは思うが、彼女は友達も多い。心配してるっていうんなら、その必要はないさ。佳恵は天涯孤独になるわけではない」 「佳恵の身に、なにかあったんですか」 サムが食べていたチリソースのスパゲティは、テーブルから姿を消していた。気付かないうちに、店員が下げたらしかった。サムはストローを使ってオレンジジュースを飲みながら、こちらを睨むように見つめていた。怒られるのではないかと思ったが、ストローから口を放すと、すこし穏やかな表情になった。 「さあ。それを自分で確認すればいいじゃないか」 「でも、メールは返事がないし、電話もつながりません。家に行ってみても、見たことのない家が建ってる。どうやって確認をすればいいのか、わかりません」 店員を呼んで、サムはオレンジジュースを下げるように言った。まだ半分くらい残っていたから、口に合わなかったのだろう、と思った。 「わからないってことはないはずだ。どこに行けば彼女に会えるのか、君はそれを知っている」 サムはテーブルのふちに腕をあてて、前のめりになってまっすぐにこちらを見つめた。梢は自分の肩が緊張しているのを感じた。高校生のときにも同じようなことがあった。一年生か二年生のとき、週に一度、ネイティブのイギリス人による授業があって、梢は無意識のうちに肩をすくめてしまう癖があった。授業のあとは筋肉が硬直してしまって、いつも首が回らなかった。 大人になってアメリカを旅行したときも、その癖は改善されていなかった。サムを前にすると緊張して、いまだに体がこわばってしまうのを感じた。おそらく今夜は長めのシャワーを取る必要があるな、と思った。しばらくして、サムは背もたれをつかって背筋を伸ばして、身体の緊張をほぐした。梢もそれにあわせて脱力した。 「わたしは彼女に気を遣っているつもりでした。でも、本当は彼女の方が、わたしに気を遣っていたのかもしれない」 サムはしばらくつまらなそうな表情を浮かべていたけれど、急に「そういえば」と言って、白い歯をにっと見せた。 「俺に、なにか聞きたいことがあるんじゃないのか?」 サムが尋ねた。 「エル」 梢が言うと、サムはうんうん、と無言で頷いた。 「サムさんの名前の真ん中にあるL、あれは一体なんなんですか」 サムはウヒハハハ、と映画みたいな声をあげて笑った。まわりの客の反応を期待するように、白い歯を見せて左右を見渡しながら笑っていたけれど、みんなスパゲティを食べるのに夢中みたいで、ひとりも顔をあげなかった。 「俺のミドルネームはレロイだ」と笑いながらサムが言った。 「レロイ?」 「サミュエル・レロイ・ジャクソン。それが俺の本名だ。俺はサミュエル・ジャクソンでもよかったんだが、エージェントが、似たような名前の俳優がいるからミドルネームをつけろと言ってきた。サミー・ジャクソンと言ったかな、何度か会ったことがあるけれど、俺よりいくらか年上で、いい人だったよ。とにかくLでもJでもMでも、なんでもよかったんだが、めんどくさかったんで本名のレロイからLをとったんだと思う。もうかれこれ四十年くらい昔の話なんで、細かいいきさつは自分でもよく覚えていない」 やはりLは初めからあったのだ。それも、四十年も前から。今度もし会えたら、佳恵に教えてあげよう、と思った。 最後に彼は、飼っている犬について話をした。考えてみれば、それは夢が終わりに近づいているしるしのようなものだった。夢の終わりはいつも、ひとつの星の死のように、いろんなものがバランスを失って、急速に崩壊に向かっていく。彼の愛犬の名前はレロイで、彼のミドルネームと同じだった。白くて小柄で、耳が長い可愛いやつだ、と言った。梢は犬を飼ったことがなく、詳しくもないので、そんな品種がいるのだな、と思って話を聞いていた。 「レロイが、この頃リビングのお掃除ロボットと意気投合してるんだ」 サムは楽しそうに言った。 「家中のどこでもついて回るんだ。どうやら親友だと思っているらしい」 サムの家は、どのような家なのだろう。ものすごく大きな豪邸を、頭のなかで勝手に想像した。お掃除ロボットは一台で足りるのだろうか。もしかすると、十台くらいのお掃除ロボットがお屋敷のなかを縦横無尽に駆け回っているのかもしれない。その場合でも、レロイは特定の一台だけについて回るのだろうか。 「お掃除ロボットのことを、生き物だと思ってるんでしょうか?」 梢がなんの気なしに聞くと、サムは「さあ」と言ってから、あごに手をおいて少し考えた。 「まえに、ボールを投げて遊んでくれるロボットを買ってあげたんだ。ぼくは仕事がら、家を長期間空けることが多いから」 そもそも、サミュエル・L・ジャクソンみたいな俳優は、一年のうち何日くらい、家でゆっくりと過ごすのだろう。年に三日か四日くらいしか、そもそも家にいないのではないか。 「でもレロイは、そのロボットとは遊ばなかったんだ」 「どういう仕組みなんですか、そのロボットは」 「仕組みもなにも、ボールを発射するマシーンが、電動の台車の上についているだけだよ」 サムは笑っていたけれど、梢はなんだか、犬のレロイがかわいそうな気がした。もしかするとレロイは、お掃除ロボットのことを心を持った生き物だと思い込んでいるのかもしれない。 梢がまばたきをしたほんの一瞬のあいだに、サムは向かいの席から姿を消していた。 梢は、そうか、お掃除ロボットだけではなくて、レロイもサムもロボットみたいなものだから、別にいいのか、とわけのわからないことを考えていた。夢は終わりに近づいていた。店内の音楽は消えて、周りの人たちの会話も消えていた。このまま感覚がしぼんでいくのかと思ったそのとき、店の外の駐車場から、車のエンジン音が聞こえた。梢は自分の席から、等間隔に並んだ窓を見ていた。いちばん近くの窓に、白いライトがゆらりと動いた。車が一台、駐車場から出て行くところだった。運転席にはサムが乗っているのだろう。丸みを帯びたフォルムのツードア車に、見覚えがあった。梢はそのときはっと気がついた。佳恵の家のガレージに入って行った車と、同じ車だ。あの車を運転していたのはサムだったのだ。 ☆ お昼前にチテンゴに到着した。相変わらず不必要なほどに広い駐車場は、めずらしく空っぽで、梢は入口のすぐそばに車を止めた。 店内は照明が落ちて、様子がおかしかった。入口の扉に手をかけると、鍵がかかっていてノブが回らない。背後に立っている賢治と顔を見合わせた。 「見て、なかの椅子」 賢治が言った。両手で庇を作って窓ガラス越しに覗き込むと、すべての椅子がひっくり返って、テーブルの上に乗せられていた。オープン前なのか、臨時休業なのか、少しのあいだ考えたけれど、チテンゴは潰れてしまったらしかった。 あのほうれん草のクリームスパゲティをもう食べられないと思うと、ほかに自分のお気に入りの食べ物がこの世界にどれだけあるか、よくわからなかった。チテンゴは佳恵との思い出のお店でもあった。高校生のときから通っていたのだ。閉店するなら建物ごとなくなってしまえばいいのに、うっすらと埃をかぶった、無人のチテンゴを見るのは悲しかった。 帰り道は賢治が運転をした。 車のなかは妙に冷えて静かだった。気がつくと、いつものセブンイレブンを通り過ぎていた。せっかくなら佳恵さんの家を見に行こうよ、賢治が提案した。梢は「別にいいよ」と適当な返事をした。車はいつもの道を通って、まっすぐ自宅に戻った。 テレビの部屋のコタツにコンロを置いて、冷凍の蕎麦を二人ぶん茹でて昼食にした。麺がほぐれたところで濃縮つゆを目分量で注いで、刻んだネギと、粗く溶いた生卵を流し込んだ。冷凍の蕎麦は乾麺のパスタと違って、すぐに茹で上がるからいい。しかも美味しい。 温かい蕎麦で空腹が満たされて、身体もぽかぽかしてきたところで、今日は彼が魚を持って帰らなかったことに気がついた。きっと、調子が悪くて釣れなかったのだろう。賢治は魚がたくさん釣れた日も、一匹も釣れなかった日も、同じテンションで家に帰ってくるし、同じテンションで午後を過ごす。それが一番すごいことだと梢は思った。きっと彼は、本当に釣りが好きなのだろう。世界から魚が絶滅しても、彼は毎朝律儀に釣り糸を垂らすかもしれない。魚が一匹もいない海で釣りをする賢治を想像して、梢は心のなかでクスクスと笑った。 「佳恵さんはさ」 鍋の底をゆっくりとサルベージしながら、賢治が口を開く。 「また連絡がくると思うよ。いまは何か事情があって、会えないのかもしれないけどさ」 そうだね、と梢は言った。チテンゴでスパゲティを待つあいだ、佳恵はいまも神社でボランティアをしていると言っていた。神社であれば、偶然を装って会うことができる。サムだったらなんと言うだろうか。 「偶然を装う必要なんてないだろう。大切なのは君の意思だ」 佳恵のことが気になるのであれば、まずは彼女の家に行って、チャイムを鳴らすべきだ、そう言うだろう。 「今から、佳恵の家に行ってくる」 梢が立ち上がると、賢治は「ちょっと待って」と言って、キッチンの棚から何かを持ってきた。ビニールの袋に入ったそれは、梢と佳恵のお気に入りのお米チップスだった。 「昨日食べてうまかったから、今朝、釣りの帰りに寄って、買ってきたんだ。手土産に持っていけば?」 パッケージを見ていると、賢治が「あ、やっぱりえび味がよかった?」と聞いた。彼が買ってきたチップスは、「ごぼう味」と書かれていた。お米チップスにごぼう味はすこしトリッキーだなと思ったけれど、佳恵だったら気に入るかもしれない。 賢治にありがとうと言って、ビニールをぶらさげて家を出た。 ☆ 風がすこし冷たかった。それでも、肌をなでる程度の太陽の熱が歩いている体をだんだんと温めて、一度も道に迷うことなく「松尾商店」のビニール屋根が視界に入ってきた。 昼に見ると、佳恵の家は想像していたよりもかなり立派だった。建物の造りは現代風で、築四十年以上の平屋が並ぶ星ヶ丘では、見栄えがよすぎてかえって居心地が悪いんじゃないかという気がした。造りだけではなく、ぱっと見ただけでは全貌が把握できないくらい、敷地も広いようだった。ひょっとすると、まわりの家をいくつか買い取って、敷地を広げたのかもしれない。星ヶ丘はいまだに自治会の力が強くて、あまりに大きすぎたり小さすぎたりして近所の均衡を乱すような建物は、禁止するルールはないにせよ、敬遠されるはずだった。 白塗りだと思っていた外壁は、淡いクリーム色をしていた。門柱にKATOという表札があって、インターフォンはゲートを抜けた先、玄関の扉の横に取り付けてあった。これほど立派な建物なのに、門ではなく玄関まで入ったところにベルがあるのは不用心な気がしたけれど、自分が住むわけではないから文句はなかった。 ベランダと玄関に通じる腰の高さほどのゲートは、閉じていた。梢は左手でそっと触れて、押してみた。音を立てず静かに開いた。アプローチは短いけれど、そのまま中庭にも回りこめるようになっていた。 まっすぐ玄関の扉まで進んで、ひと思いにインターフォンを押した。いまさらになって、慌てて話題を探そうとしていることに驚いた。そして、サミュエル・L・ジャクソンのことを思いついた。彼の名前にははじめからLがあったということを、佳恵に教えてあげようかと思った。でも、佳恵のことだから、きっとそんな話題があったことも、すでに忘れているかもしれない。「そんな話、したっけ。ごめん、全然覚えてないや」と笑い飛ばす佳恵の顔が浮かんだ。彼女は毎日新しいことを見つけて、どんどんわたしの先を行く。昔からそうだった。 扉の向こうで人の気配がした。鍵が回る音がして、ゆっくりとスチール製の扉が開いた。