ライダーといっても、俺の仕事は仮面ライダーではない。ヘルメットは被るけれど、安全のためであって、世を忍ぶための仮面とは違う。 ヘルメットには二種類あって、顎が出るタイプはジェット、顔全体を覆うタイプはフルフェイスと呼ばれている。個人的にはジェットの方がかっこよくて好きだけど、仕事では真夏の約一ヶ月間をのぞけば、フルフェイスを使う。 東京の冬は寒いから、ネックウォーマーを鼻まで巻いて、フルフェイスを被っても配達のたびに頬が凍ったようになって、舌も回らず、お客さんとろくに喋れなくなる。まあ、喋れなくても特に問題はない。もちろん仕事だから挨拶はするけど、サインをもらっているあいだも静かにして、余計なことはしゃべらない。運び屋には俺みたいな性格の奴が多い。営業所ではおしゃべりな奴も多いけれど、配達中はまったく話し相手がいないわけだから、その反動だろうと思う。 俺は東京の小平市にある営業所に登録している。営業所というのはライダーたちの詰め所のようなところで、依頼が多いのは圧倒的に二十三区内、特に品川とか新宿みたいなオフィス街だから、小平なんて東京の西のほうに営業所があるのはめずらしい。小平営業所は西東京と都内を結ぶハブのような役割をしている。二十三区内だと大きなオフィスがあるから案件は多いけれど、距離が短いから業務委託で完全出来高制のこの業界ではあまり稼げない。うちの営業所にも時給制のやつらがいるし、定期便や伝票しか担当しないやつらもいるけれど少数派で、ほとんどが俺みたいに一本いくらで臨時の配達をこなしていく。 そもそもバイク便ってのがなんなのかというと、荷物を運ぶ仕事という点では郵便局やクロネコヤマトとは同じだけれど、細かく見ると少し違う配達のスタイルを持っている。郵便局みたいに大きいところは、 安いぶん時間がかかる。朝出したら、最短でもその日の午後にようやく届く。うちみたいなバイク便は、基本的に混載しない。集荷から配送まで、いってみればオーダーメードで注文をとる。だからこそ都内から近県まで一時間で配達できるのだが、料金は倍以上かかる。 俺にはよくわからないけれど、それでも急ぎたい時と場合というのが、ビジネスの世界ではあるらしい。 その日の俺は、いつもと同じように朝八時に勤務開始の連絡をして、家を出た。季節はすでに冬だったけれど、秋晴れと呼びたくなるような、気持ちの良い天気だった。 もし営業所に行く途中にナイスなタイミングで集荷があれば、立ち寄るように指示が出る。新青梅街道を西に走る。都内へ向かう反対車線はぎゅうぎゅうに混んでいるけれど、俺は逆方向なので快適だ。 指示は会社から支給されている携帯電話に、配車マンから送られてくる。配車マンはその名の通り、ライダーたちを手配する人たちのことだ。ライダーの仕事を始めて二年半、一日に何十回もここへ行けあそこに行けと指示を出してくる配車マンだけど、直接お目にかかったことは一度もない。俺のイメージでは「マン」と言いつつ女性だと思う。本社のフロアに大きなスクリーンがあって、その地図上に俺らライダーが小さな点として表示されている場面を想像する。 八時二十分に、小平営業所に着いた。おれは営業所には長居しない。出勤前と出勤後にささっと立ち寄るだけだ。午後の二時まで働くつもりだったから、ガソリンの残量をもう一度確認して、とりあえず腹ごしらえに近所の蕎麦屋に行くことにした。 ライダーには蕎麦派とラーメン派がいる。配車マンから連絡があれば現場に急行しなければならないので、蕎麦は素早く食べられるのが良い。ライダー仲間には、食事に時間をかけていられないという理由で、「冷やしぶっかけ」しか頼まないやつもいるほどだ。俺はそこまで極端じゃない。温かい蕎麦も食べるし、時間が許す限り蕎麦湯も味わいたい派だ。 俺の居場所は会社から支給された携帯電話からGPSを通じて、常時配車マンたちに送られている。ちなみに、俺の居場所を握っているのは会社だけじゃない。俺のプライベート用の携帯電話からは、また別のGPSシグナルが俺の嫁に送られている。けど、俺は別に不自由じゃない。自由だからこそ、俺の背中にはGPSが取り付けられるのだ。独房に収監されている囚人に、GPSは必要ない。 近所の蕎麦屋は、まだ朝の九時ということもあって、店内には人影もまばらだった。俺が畳の席に座って『きのこと野菜のとろみそば』という秋限定のメニューを食べていると、 「アキラさん」 と後ろから声がかかった。振り返ると、小平営業所でいちばん稼いでいるらしい伊藤くんがトレイを持って立っていた。童顔で、黒い短髪をつんつん逆立てている。俺は伊藤くんの半分も稼いでないと思うけれど、俺たちライダーにとって、稼いだ金額というのはたいして重要ではない。チーム戦じゃないし、働き方はいろいろだ。 「一緒いいですか?」 「もちろん」と言って、目の前のテーブルの向かいの席を指さした。俺が「伝票は?」と言うと、慌ててもとの席から伝票を持ってきた。テーブルごとに後払いなのを忘れていたらしい。 「さすがアキラさんっすね、立ち食いじゃなくて座り食いの蕎麦屋」 「ははは」 「あ、しかも、期間限定じゃないですか。八百五十円の。営業所のみんなが知ったら、悔しがって泣きますね」 「ばれないから大丈夫だよ。あいつら、こんないい店には来ないから」 俺がいじわるを言うと、伊藤くんがゲラゲラと笑う。俺はべつに、あいつらが貧乏だと言いたいわけではなかった。ライダー仲間は金はそこそこ持ってるくせに、チェーン店の立ち食いにこだわるやつが多い。食事はなるべく安く早く済ますのが美学だと考えているらしい。俺はごはんはゆっくり味わって食べるのが好きで、そんなの当たり前だと思うけれど、多くの人に「変わってる」と言われる。実は、近所にはもっと美味しい蕎麦屋があることを俺は知っている。今日は時間が早いからまだオープンしていないけれど。 「伊藤のそば、なに?」 「たぬきそばです。五百円の蕎麦を、ゆっくり座って食べるくらいの贅沢はしたいですよね。もちろん、三百五十円の立ち食い蕎麦もいけますけど」 「今度もっと美味いとこ連れてってやるよ」 「まじですか」 「まじまじ」 「ところで、アキラさん」 椅子に座った伊藤くんは、トレイの上の樹脂の箸を手にとって、割り箸みたく割ろうとしたように見えた。ここはいいお店だから、箸だって初めから割れている。 「アキラさんって結婚して何年ですか?」 「え、何年だっけ」 結婚して何年になるか、聞かれるたびに計算に時間がかかる。嫁は俺が大事なことを忘れていると言って怒るけれど、今日が西暦何年の何月だったか、そちらのほうがすぐに思い出せないだけだ。 「そろそろ丸八年か。いま七年目」 「アキラさんって歳はいくつでしたっけ」 「いやだなあ。歳、聞くなよ。えっと、三十四だよ」 「おっさんじゃないですか」 伊藤くんが笑う。たしか彼は二十歳くらいだ。ライダーをはじめて半年しか経たないのに、誰よりもたくさん配達をこなしている。 「もうおっさんだよ」 「実はぼく、最近悩みがあるんですけど。聞いてくれますか?」 若者はストレートでいい。 「俺に悩み事を相談したい奴なんて、めずらしい」 俺は配車マンからの連絡が来なければいいなと思った。その日は土曜日で、金曜日が祝日だったから三連休の中日だった。朝から天気もいい。そういう日はたいてい暇だ。 「いま付き合っている彼女と、結婚しようかと考えてるんです」 「へえ、おめでとう」 「もうプロポーズもしました。来年の二月に結婚式をしようかと考えています」 「それはもう、幸せの絶頂じゃないか」 「それが、単純におめでたいってわけでもないんです」 伊藤くんの表情が曇った。 「先週、一日だけすごく暑い日があったでしょう。土曜日だったかな」 「暑かったのは土曜日」 「ぼく、その日休みだったんです。それで、二人で出かけたんですよ。うちの近所に、コミュニティモールができたんです」 「コミュニティモール」 伊藤くんはふっと笑って、おじさんを哀れむような目線を送った。 「ショッピングモールよりは小さくて、その分ぎゅっとしてるというか、新しいお店がいっぱい入っていて、おしゃれな感じの場所です」 「ふうん」 抽象的でふわふわした説明を聞いて、伊藤くんだってほんとうはよく分かってないんじゃないか、と言いたくなった。まあとにかく、感受性が高い若者向けの場所なのだろうな、と想像した。 「三階建てで、吹き抜けになってて、一階に中庭があって、そこにベンチとかブランコとか、芝生があったりするんです。池があって、魚が泳いでたり。そういうスペースを囲むようにしてカフェとかレストランがあるんですけど、どのお店もプレートランチがテイクアウトできて、その中庭で、自由にくつろぎながらごはんを食べれるようになってます。三階は中庭をぐるりと囲むようなかたちで、屋上にランニングコースがあります。一周が三百メートルだったかな。昨日は昼過ぎに行ったんですけど、ちゃんと本格的なウェアを着た人がたくさん走ってました。ランニングゾーンの周りにはプロテインやスムージーを売ってるお店があるんです。全面ガラス張りの、明るくて開放的な雰囲気のジムもありました」 「わかったわかった。おじさんにもわかったよ、そのコミュニティモールとやらが、どういうものなのか。で、デートがうまくいかなかったんだろ?」 「午前中に二人でそこに行って、買い物をしてご飯を食べたんです。お昼を食べたあとにまた買い物して、ちょうど三時のおやつくらいの時間だったかな、ぼくがアイスクリームが食べたいと提案したんです」 俺は二人の姿を頭の中に思い浮かべた。伊藤くんの彼女の顔は見たことがないけれど、伊藤くんは容姿も悪くない好青年だから、きっと彼女も可愛いんだろうなと思った。祝日の昼下がり、二十代の美男美女がのんびり買い物を楽しんで、息抜きにアイスを食べる。これ以上うまく描ける幸せがあるだろうか。 「いつもは、甘いものが食べたいって提案するのはアキなんです。でも、昨日は朝から、アキの機嫌が悪かったんです」 どうやら彼女の名前はアキというらしい。 「機嫌が悪いって、どういうふうに」 「なんというか、説明が難しいんですけど、単純にすれ違いが多くなるんです。ぼくのつまらない冗談を何度も聞き返したり、昨日は朝から暖房の設定温度が低くて寒いとか、部屋が暗いからもっと照明が必要なんじゃないかとか、雨が降るかもしれないから出かけない方がいいかもしれないとか、直接的ではないにせよ、ネガティブな発言が多くなるんです」 「ふうん。それは機嫌が悪いんじゃなくて、本当にそう思ってるんじゃないの?」 「なんていうか、いちどネガティブなほうに向いてしまうと、マイナスなことばかりが目につくらしいんです。実際に身体の調子が悪くなったり、熱を出したりもします。いつも感情に波はありますけど、そこまで悪くなるのは二、三ヶ月に一回だと思います。そして、そういう日は決まって喧嘩になるんです。小さなすれ違いが積もっていって、夕方にはかなりひどい言い争いになっています。昨日も朝の時点で、ああ、これはカウントダウンが始まったな、と覚悟しました」 喧嘩というのは、そういうふうにあらかじめ予測ができるものなのか。朝の時点で、夕方ごろには言い争いになると予測がついていながら、それが回避できないというのは意味がわからない気がするが、本人が言うんだから、そういうものなのだろう。 「それで、アイスクリームは?」 「あ、そうでした、すみません。昨日は珍しくぼくが提案したんです。ぼくは甘いものはそれなりに好きなんですよ。でも、あくまでそれなりにです。自分からアイスクリームを食べようなんて、提案することはほとんどありません。いつもアイスクリームを食べたいと言い出すのは、アキのほうです。正確には『アイスクリームが食べたい』と言うことはなくて、『冷たくて甘いものが食べたい』と言います」 「で、昨日はアイスクリームを食べたんだね?」 俺はだんだん、伊藤くんがいじわるなひとに思えてきた。 「食べました。ぼくがアイスクリームを食べたいと言ったら、アキはすごく喜びました。その日は今日みたいに天気も良くて、吹き抜けの建物の中を歩き回っているとポカポカしてきたので、俺も正直アイスクリームが食べたいと思いました。だから別に、アキの機嫌を取ろうと思ったわけではありませんでした。でも結果的に、正解だったんです」 「正解」 「それでアキの機嫌がすっかり良くなったんです。そこで思い返してみると、これまでもアキの機嫌が悪いときは、いつだって甘いものを食べることで解決してきたと気づきました」 機嫌だなんだと話を聞いていると、なんだかアキさんの感情がゲージのようなもので動いているような気がしてくる。アイスクリームを食べるか食べないかという選択肢があって、食べるを選ぶと機嫌ゲージが回復し、食べないを選ぶと機嫌ゲージが減る。人間はそんな単純じゃないような気もするし、人間なんて案外そのくらい単純なのかもしれないな、とも思う。 「なんだ、それで終わり?」 「いや、そこまでは良かったんですよ」 そう言うと伊藤くんはため息をついた。 「さっき、屋上にランニングコースがあったって言ったでしょう。アイスを食べたあと、屋内のガラス越しに、ランナーたちを二人で眺めてたんです。いまどきのランナーってシューズもカラフルだし、腕にスマートフォンを付けて走ってたり、ワイヤレスのイヤホンや心拍数計をつけていたりして、すごく個性的なんです。ぼくもそろそろ何か定期的に運動をするのもいいなあと思いながら、その人たちを見てたんです」 「ふたりで、ランナーを眺めてたの? 変なの」 「そうですか? ほかにもいましたよ、ランナーをただ見てる人たち。テラス席でコーヒー飲みながら、ぼうっと。やっぱり、一生懸命走ってる人を見るのって、楽しいでしょう」 「そうかなあ。俺はこっちまで胸が苦しくなってくるけど」 「そうですか」 「まあいいや、それでランナーを見てて、どうなったの」 「アキが、夜にふたりで公園でジョギングしようと言い出したんです」 「だめなの?」 「女性が急に運動したいと言い出す理由は、ぼくが知る限りひとつしかない。ダイエットですよ」 「いいじゃない、付き合ってあげれば」 「問題は、ぼくがアイスを提案した日に、運動をしようと言い出したっていうことです。つまり、ぼくへのあてつけなんですよ。わかりますか? あなたがアイスを食べようなんて言ったから、私は太っちゃった、運動しなきゃってことです」 店内のどこかにテレビがあるらしく、ワイドショーかなにかでハリウッド俳優がインタビューをされている音声だけが、かすかに聞こえてくる。目の前の伊藤くんは、なんだかやたらしょんぼりした様子で肩を落としている。 「伊藤くん、あきれたなあ。そんなの、たまたまアイスを食べて、そのあとにたまたま走ってるひとを見たから、自分も運動したくなったんでしょう。別に伊藤くんに、アイスについて文句を言っているわけではないと思うよ」 「この段階では、たしかにそうかもしれません」 伊藤くんの声が少しだけ大きくなった。 「でも、さらにこのあとがあるんです。家に帰るバスのなかでも、ずっとアイスクリームの糖質やカロリーについてスマホで調べてるんです」 俺は黙ったままで話を聞いていた。 「いつもだったら、そんなこと調べないんですよ。チョコレートパフェを食べたあとでも、たまにはいいよね、なんてケロッとしてる。しかも、ぜんぜんたまにじゃないのに、ですよ。外出すると、ほとんどと言っていいほど食後にデザートを食べますから。週に三度は食べてますね。言っておきますけど、そのどれも、アキが自分から提案してるんです。ぼくから提案することなんて、百回に一回もないくらいだ」 「まあまあ」 「それなのに、年に一度くらいの頻度でぼくがアイスを提案したときに限って、ずっとねちねちアイスクリームの悪いところを調べ続けるんです」 俺は蕎麦を見つめて、じっと考えた。やはり伊藤くんは気にしすぎなんじゃないかと思った。 「伊藤くんってさ、いつもそんな感じなの?」 「どういうことですか」 「いや、話を聞いてるとさ、何気ないことで、自分が責められてると勘違いしちゃうのかなあって」 「いやあ、責めてるでしょう、ぼくのことを」 「そうかなあ。そうは思わないけどなあ」 伊藤くんは納得がいかない様子で、だしを吸い込んですこし太くなった蕎麦を勢い良くかきこんだ。 「つまり、ぼくが言いたいのは、こっちはいつだってアキに気を遣って過ごしているのに、アキはぼくの気持ちを逆撫でするようなことばかりしてくる、ということです。結婚して、一生彼女のわがままに振り回されると思うと、どんどん気持ちが暗くなってきます」 伊藤くんの気持ちも、分からないでもない。俺だって若い頃は、どうでもいいことで、落ち込んだり悩んだりした気もする。 「アキラさんって大学出てるんでしょう」 突然話が変わった。 「出てないよ」 そのうちに大学に行ってみてもいいかな、と思っているけど、そんなのは漠然と思っているだけだ。五十くらいから大学に通い直すのも、かっこいいかもしれない。 「え。ウワサでは、アキラさんって大学出てて、自分でビジネスやってるって。空いた時間で、趣味みたいな感じでバイク便やってるって聞きましたよ」 「なにそれ。そんなことない。これ、俺の唯一の収入源」 伊藤くんはぽかんとしていた。 「じゃあなんで『きのこと野菜のとろみそば』食べてるんですか」 「うちは奥さんが稼ぐからな」 「いいなあ」 「伊藤くんの彼女は、えっと、アキさんは、何してる人なの?」 「アキは大きな建築会社の総合職です。大学も出てて、留学もしてたから英語もしゃべれるんですよ」 伊藤くんは誇らしそうだった。 「じゃあ、大丈夫じゃない。伊藤くんとはちがって、ちゃんと勉強できる子で」 「それが、そうとも言えないんです」 俺の嫌味を無視して、伊藤くんは続けた。 「いまって、大学出ても給料は知れてますよ。この仕事になってからは、ぼくのほうが稼いでます。家庭をもつためには、なにしろお金が必要ですから」 伊藤くんが真面目に働いてるのには、理由があったのだ。 「でも、バイク便の仕事って、やっぱり長くやるにはきついでしょう。」 「そうかな。まあ、冬はきついな、寒いし」 「夏もきついっすよ、暑いし」 まあな、と返した後に、しばらくの沈黙があって、 「付き合って何年になるの?」 俺が聞くと、伊藤くんは蕎麦をもぐもぐしながら、少し恥ずかしそうに「一年半です」と答えた。俺もそのくらいで結婚した。 「アキラさんは喧嘩することないんですか?」 「うちは喧嘩しないよ」 「まったくですか?」 「ほぼしない」 「付き合っていた頃も?」 「付き合ってた頃は、鬼も泣くほど喧嘩しまくったよ」 俺がそう言うと、伊藤くんはニヤリと笑って、すこし嬉しそうな顔をした。その時、伊藤くんの携帯電話がテーブルの上で振動した。 「あ、ぼく配達入りました」 伊藤くんは携帯電話を握って立ち上がった。蕎麦はまだ半分以上残っている。 「ねえ、それ食べていい?」 俺がトレイを指差しながら聞くと、伊藤くんは苦笑いしながら「いいですけど」と言った。俺はどうしてそんなことを尋ねたのかわからなかった。他人の食べ残しを自分からねだるなんて、人生で初めてのことだった。 「集荷、行ってきます。お話聞いてくださって、ありがとうございます。アキラさん、今日何時上がりですか?」 「二時」 「お昼の、ですよね? 何か用事があるんですか」 「病院に、おやじさんのお見舞い。嫁さんのパパね」 「へえ。病気なんですか」 「そう。もうやばい」 「ぼくも中学のとき父を亡くしました。そのとき以来、病院って行ってないなあ。病院って床に『レントゲン室』とか『第二病棟』とか、矢印がありますよね」 「なにそれ」 と言いながら、思い出してみると、俺の父親が死んだ病院にもそういう誘導用の動線があったような気がする。緑やオレンジの線がどこまでも伸びていて、そのうえを歩いていけば目的の場所にたどり着ける。お義父さんの病院には、そんなものはない。床は余計なものはまったくなく、真っ白に磨かれている。そういえば、俺の親父が死んだ病院と、お義父さんが死のうとしている病院は、おなじ「病院」という言葉でひとくくりにするのが憚られるくらい、まったくの別物だ。 「それで、床の誘導案内が、どうしたの?」 「大した話じゃないです。また今度、時間のあるときに話します」 靴をひっかける背中に、「伝票置いてけよ」と声をかける。伊藤くんは「大丈夫です」と言って振り返らずにレジに直行した。お釣りも受け取らない様子で、駆け足で自動ドアをすり抜けるようにして出て行った。びゅう、と冷たい風が店内に入ってくる。店の外から、ホンダの250CCエンジンに空気が入り、振動する音がした。俺の携帯電話はぴくりとも鳴らず、店内は水を打ったように静かだった。俺は伊藤くんの蕎麦の残りを食べて、店内のAMラジオに耳を傾けつつ、外に出たくないなあ、寒いんだろうなあ、と思いながら、しばらくぼんやりした。 ◆ ヘルメットを枕元のテーブルに置くと、コツンという音がした。俺はとっさに、眠っているお義父さんを見た。お義父さんはもちろん目を閉じたままだった。 「アキラくん、外は寒かった?」 お義母さんが背後から俺に聞いた。 「昼から寒くなってきました。十一月下旬並みだそうですから」 「配達の仕事は大変でしょう」 「寒い日こそ、仕事が捗ります。暑いよりはいいんです」 お義母さんにはわかりっこないけれど、バイク好きからすると、バイク便の仕事は天職だと言っていい。ピザの配達から要人警護まで、バイクを使う仕事は数あれど、バイク便ほどバイクを知り尽くし、バイクを愛する者たちが集まる仕事はない。 お義母さんが柿を剥いてくれている間、俺はひとりでお義父さんに話しかけていた。外は銀杏の葉がほとんど落ちたとか、来週は初雪が降るかもしれないとか、そんなことを一方的に話し続けた。 ふと、携帯電話が鳴っていることに気が付いた。それも仕事用の携帯だった。すでに配車マンには勤務を終える連絡をしたはずだ。 不審に思いながら番号通知を見ると、身に覚えのない携帯電話の番号だった。お客さんかもしれないと思い、「もしもし」と念のために丁寧な口調で出ると、 「伊藤です」 と声が聞こえた。 「なんだ、伊藤くんか」 彼から電話がかかってくるのは、初めてのことだった。 「突然すみません。いまひとつ大きな配達が終わったところで、ふとさっきの話の続きがしたくなって……」 「続き?」 「はい、病院の床の話」 「ああ」 俺は記憶を辿って、つい数時間前、伊藤くんが別れ際に言っていた病院の床の誘導案内を思い出していた。 「中学の頃、父が亡くなってから、よく夢を見たんです」 目の前で目を閉じているお義父さんに、「父」「亡くなった」というような会話が聞こえているような気がして、少しどきっとしてしまった。もちろん、誰に大声で怒鳴られても絶対に目を覚ますことはないと医者にも確約されているお義父さんは、ピクリとも反応しなかった。個室で携帯電話を使っていいものか分からなかったけれど、たまにお義母さんも誰かと長電話をしているから、きっと大丈夫なのだろう。 「父が亡くなった病院の廊下を、ぼくはひとりで歩いてるんです。床にはカラフルな矢印が伸びています。矢印が別れたり、集まったりするのを見ていると、いつに間にか、そのうちの一つに真っ黒な矢印があるのに気がつくんです。その矢印がどこに向かっているのか、説明も書かれていません。夢のなかのぼくは、それがなんなのかわからないまま、その矢印の上を歩いて行きます。 オレンジが分かれて、青が分かれて、最後には黒い矢印一本になります。そこは長い廊下で、扉も、階段もありません。ただまっすぐの廊下が伸びているだけです。その夢を見るたびに、ぼくはできるだけ前を見て、ゆっくり落ち着いて歩くようにするんです。決して振り返ってはいけないということは、直感的にわかっています。でも、いつも決まって我慢ができなくなって、うしろを振り返るんです。すると、目と鼻の先に暗闇が迫っています。 暗闇の中に、なにかの気配を感じます。そこから何か恐ろしいものが近づいてくるような気がするんです。ぼくは急いで前を向いて、逃げるようにして走り出します。ぼくはついに暗闇に飲み込まれて、目が覚めます」 俺は話に聞き入っていたので、間抜けな顔でお義父さんを見下ろしていた。口もぼんやり開いていたと思う。 「それだけです」 そう言うと、伊藤くんは少し照れたようにはははと笑った。俺は、途中になった会話の続きを、律儀に電話をかけてきてまで話してくれたことが嬉しかった。 「運転気をつけろよ」 嫌な予感がしていたというわけではないが、妙な話だったせいで、普段言わないような言葉が口をついた。伊藤くんはういっすと返事をして、あっという間に電話を切った。 ◆ 伊藤くんが亡くなったのは、それから二週間後の初雪の日だった。俺はお義父さんのお通夜の途中で、同僚から電話が鳴った。俺はとっさに仕事中の事故だと思ったけれど、同僚の話によると伊藤くんはすでに勤務を終えて、一度バイクを家に置いてから、近所を歩いていたらしい。 「交差点で、乗用車にはねられたんだ」 その声が、抑揚に欠けて事務報告のように聴こえたのは、きっと彼のせいではなくて、お通夜で他人から「御愁傷様」という言葉をたくさん浴びたあとだったからだろう。 「近所の小学校の近くに、細い道をいつもとばす危ない車がいるって話は、伊藤から聞いてたんだ。あいつ、裏道をたくさん知ってただろ。仕事熱心だったからな。その車を止めるために、道の真ん中に立ったらしい。だからって、人間が二本足で、自動車に立ち向かっちゃだめよな」 俺は、伊藤くんならやりかねないと思った。毎日何時間もバイクで走っていると、危ない運転をするひとはたくさんいて、熟練のライダーたちでも怖い思いをすることがある。きっと、子どもたちが危険な目に会う前に、自分が止めなければと思ったに違いない。 伊藤くんとアキさんには子どもがいたのだろうか、と考える。雪はうっすらと積もり始めていて、伊藤くんともう一度蕎麦を食べたかったなと思いながら、明日の雪道を心配している。